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翻訳としては講談社学術文庫に国原訳がある。比較すると、この岩波文庫の近山訳は原文に忠実であろうとするあまりぎこちない箇所がある。例えば第5巻の最後の文を近山訳では「カエサルはこの事件後やや静かなガリアをもつことになった」としているが、これは国原訳の「ガリアはこのあと当分の間、やや平静な状態を維持する」の方が良い。また近山訳は一旦訳したものを戦後訳しなおしたためか、硬い表現と柔らかい表現が混在しているところがある。例えば第7巻4の中で近山訳が「重罪は火と凡ゆる苦しみで殺し、」としているが、これは国原訳の「大それた違反を犯した者には、火焙りやあらゆる拷問にかけて殺した」の方が文章の中における表現の統一がとれている。しかし全般的には、近山訳の方が丁寧に言葉を補って訳されており、私にはわかりやすかった。例えば第6巻の5で国原訳は「この計画を思いつくと、全軍隊の輜重をトレウェリ族のラビエヌスのもとに送り、」としているがこれではガリア人のトレウェリ族とローマ人のラビエヌスの関係が明確でない。近山訳では「この考えから全軍の荷物をトレーウェリー族にいるラビエーヌスに送ることにして」としている。「の」を「にいる」にするだけで明快になっている。
なお、紀元前の話なので、背景も含めて知りたい方は塩野七生「ローマ人の物語(4) ユリウス・カエサル ・ルビコン以前」を読まれたい。
八面六臂の活躍といえば聞こえはよいが、すぐに崩れてしまうような、危ういバランスの
上に成り立っている彼の事業を顧みたとき、カエサルは、このガリア遠征が本当に終わる
のか、自分が征服者としてこの遠征を終わらせることができるのか煩悶したことはないの
だろうか?確固たる基盤は何もなく、周りが全て敵か、もしくは状況次第では味方だった
ものが容易に敵になる状況において、昨日征服しても明日にはまた叛くようなことの連続
で、底なし沼にはまったような感覚、恐怖感に襲われなかったのだろうか?
無論、彼の内心を吐露するような記述はありませんが、淡々とした叙述なだけに、余計そ
んなことを考えて読んでおりました。
読む際の難点は、やはり地名と部族名、人名でしょう。それらを漠然とでも把握していた
ら、事柄の前後関係や因果関係の把握もそれほど苦労することはないと思います。
時々、地名と部族名を確認するために、巻初の地図を何度も確認してしまうのは仕方ない
として、訳文はカタカナなのに、地図ではアルファベットなんですよね~。読むこちら側
としては、どういうルートをたどってどこにいって、などが確認したいんですが、地図が
貧弱なのも困ったものです。ただし、巻末に人名、部族名の索引があるのはOKです。
最初の書き出しが有名ですけど、終わりの文章も秀逸だと思いますよ。
「カエサル自身はビブラテクで冬営することにした。この年のことが手紙でローマに知れ
ると、二十日間の感謝祭が催された。」
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