最初に本書を読み始めてすぐに挫折し、今村仁司の「マルクス入門」(ちくま新書)を読んでから再チャレンジして、やっとマルクスの面白さに気付き、近年にない知的興奮を味わっているところです。
マルクス、フォイエルバッハなど、ヘーゲルをルーツとする一派には独特のロジック回しがあって、相当に意識を集中して読まないと、今日の日常的な日本人の論理意識では理解しづらいところがあるのは事実です。あと「止揚」「疎外」などの独特の用語!「市民社会」といった一般化した用語にしても、実は厳密に概念を把握しないと置いてけぼりを喰らうことになります。吉本自身にも妙な言葉遣いのクセがあるので、さらに注意が必要です。
要するに「慣れ」の問題ではあるのですが、ちょっと我慢してこうした論法に少しずつ馴染んでいけば、ある段階から物凄く触発力・飛躍力・応用力のあるグレートな思想であることがわかってきます。頑張るだけの甲斐はあるので、ぜひ皆さん、マルクスにチャレンジしてみてください。
さて本書の中身ですが、古代ギリシャの自然哲学から学究生活を開始したマルクスが、「生命現象や精神活動の根源にある『霊魂』は一種の物質(アトム)であり、それらが人間の身体を出入りする運動を行っている」という説(唯物論)にインスパイアされて、ヘーゲルの「疎外」という概念を改鋳・拡張し、そこからA.自然と人間の相互関係(=労働)、B.人間の幻想性の外化(=宗教・国家・法の成立)にまで発展させ、それらとC.市民社会(=経済生活や言語コミュニケーションの総体)との関係性を、三位一体的に緊密に把握しながら思想を展開したことが述べられています。
例えば、「宗教・国家・法」を共通の幻想の体系として理解すると、古代エジプト・中国・日本のような「首長=司祭・神官」体制や、現在のイスラム国家の「祭政一致」についても、なぜこのようなものが存在するのかが改めて腑に落ちます。白川静は「古代中国における文字(甲骨文=漢字=コミュニケーションツール)の発生は、絶対王朝(宗教国家)の登場を待たなければならなかった」と述べていましたが、本書の解説で中沢新一が「個人の幻想性が外化・平準化されるためには必然的に言語コミュニケーションに変換される必要性がある」という意味のこと述べているのと全く同じだと思いました。
本書が書かれたのは1964年(昭和39年)であり、当時幅を利かせていた<マルクス主義>を自称するソヴィエト・東欧の官僚国家や各種党派的集団に対して、吉本が断固無効性を主張している点も先駆的だったものと思われます。
あと私事ながら、今回、勤務先の会社からとある中央省庁に出向し一課長補佐として奉職することが決まったのですが、「官僚制の弊害はなぜなくならないのか?」「なぜ掛け声ばかりで“小さな政府”は実現しないのか?」といったことについて当事者として考える上でも、本書からはたくさんヒントをもらいました。その意味で、マルクスは全く古びてもいないし、非常に実用的な思想なのだと感じています。