バックハウスの十八番がこのベートーヴェンの4番のピアノ協奏曲。 ベートーヴェン直系のピアニストで弟子をほとんど持たなかったという師ダルベールに見込まれ叩き込まれたレパートリーのひとつ。若い頃「鍵盤の獅子王」と呼ばれたこの人には、豪壮な同じくベートーヴェンの「皇帝」協奏曲の方がお似合いと初め思うが、この演奏を聴けば、納得する。 1960年代のウィーンでは、 この曲をバックハウスのピアノ、ベームの指揮、ウィーンフィルハーモニーのバックで聴くことは特別な経験であった。 当時のウィーンフィルは、定期演奏会で協奏曲を演奏することはしなかったが、バックハウスは特別待遇で幾度となく招聘した。しかしこの3者が揃っての録音は、わずかに4つ(モノラル2つ、ステレオ2つ)。その中にこの曲は含まれなかった。理由は3者が別々な録音会社と契約していたため、弊害が多すぎたのだ。(ライブ録音は辛うじて残っており2種は所有しているがいずれも水準以下のモノラル録音) しかしその価値を信じた数少ない人たち(おそらく本人たちもそう感じていたのではないだろうか)が、この撮影を敢行した。ウィーンフィルを諦めウィーン交響楽団を起用、非常に状態のよいカラーとステレオで掛け替えのない宝物のような瞬間が、ここに刻まれることとなった。それだけに、本人たちもこの一期一会の撮影にかける意気込みは映像を通してひしひしと伝わってくる。スタジオ録音とは思えない独特の緊張感。 この曲はピアノのモノローグで静かに始まる。 清澄な空気と祈りが静かに告げられる。 精神的な美が何の誇張もなく表現される。 83歳のバックハウスはこの部分の演奏について収められているインタビュー(必見!!)の中でピアノの前に座り手を鍵盤の上に置き、こう語っている。 「私は毎日愛して止まないこの協奏曲の冒頭を練習し続けてきた。でも未だに・・・・完全に満足できたことがない」 60年以上毎日(!!)弾き続けたというのに納得がいかないとは、本当に頭が下がる。クラシック音楽家の止まらぬ成長は、こういう謙虚な姿勢から来ているのだろう。孔子の「20にして・・・」という言葉を連想させる。 彼の言葉どおり、祈るように少し手を震わせながら鍵盤に手を置き慎重にでも決然と音楽が始まる。 実はバックハウス、その謙虚さから多くの個性的な指揮者たちと共演し録音している。 C.クラウス、クナッパーツブッシュ、カラヤン、S=イッセルシュテット。 しかしいずれもバックハウスのベストフォームとはいえない。 原因は指揮者がクセモノか場違いか支えきれていないか。 その違いがよく判るのが1楽章中間部のブリッジパッセージ。 どの指揮者との演奏でも淡々としているが、いかにベームの指揮の時に感じきったテンポ、音色で演奏しているか! ベ−ムが指揮を執ったときのバックハウスは自分の呼吸の中で安心して音楽に没入している。感じ切った音色、パッセ−ジ、テンポ、リズムといったさり気無い小さな『成果』が積み重なると豊潤な音楽の源泉となり、驚くべき至高・至福の境地へと聴き手を誘う。彼のように謙虚に淡々と音楽を紡いでいくピアニストには一事が万事、演奏の生命力に関わる重要な問題。 この演奏は「何も為せずして全てを表現し尽くした」バックハウス真骨頂の至芸が堪能できる。 彼こそ真の音楽家であり表現者であると思う。