三批判書を統合的に解釈しようとする試みが本書のそれだが、この試み自体は、新しくなく、むしろ古典的なものだ。古くはドイツ観念論がその運動で、ヘーゲルの哲学にその最大の成果物を見るだろう。また岩崎武雄らの秀逸なカント解釈でも、三批判書の内的な関係は、積極的に模索されている。したがって、試み自体は全く新みはない事は否定しがたいと思う。だが、ドゥルーズの説明方式は、非常に独特で、「能力」の側面から、アプローチする。カントにあっては、認識能力(思弁的関心=感性界=悟性能力)と欲求能力(実践的関心=超感性界=理性)の関係が必ずしも明らかではなく、この統合に苦慮の結果、「判断力批判」を書き、両能力の一致を可能にする前提を規定しようとした。ここでカントが注目する判断力は、反省的判断力であって、個別から普遍を導出するideationの機能だ。フッサールの探究にも交差する点だと思う。認識能力も欲求能力も、この反省的判断力において、機能を発揮するし、またそれなしには、そもそも成り立たない、ということだ。そしてここでキーになるのが「構想力」である。構想力によって、超感性界の道徳律が、感性界において実現されるうるということだろう。しかし、美と自然合目的性に、感性界と超感性界の統一を考えることは、やはり議論が屈折していて明らかとはいえない。本書におけるドゥルーズの説明も決して明瞭とはいえないが、それはカントの哲学に胚胎する問題であってやむを得ないと思う。それにしても、感性界をひとつの全体に纏め上げることが「理性」の機能であり、構想力を駆り立て、しかし、「理念」との乖離に直面すること(「矛盾」の認識)も、また「理性」だ、とドゥルーズが語るとき、これはヘーゲルの弁証法哲学そのものであり、カント=ヘーゲル関係を確認する思いがする。するとカントからヘーゲルへの推移の歴史的必然があるが、また、カントもヘーゲルも主体(有限者の立場)から説き起こしておきながら、統合を考えるに及んで「無限者の立場」から解決しようとする(つまり「理念」を持ち出すことは無限者の立場)という一貫性の無さがあるように思える。だからアドルノが「全体性」の虚偽を言うのはこの辺りだと思えた。「結論」において有名な「置換体系」なる言葉が登場するが、これは、各諸能力が体系的に配置されていても、一致とアンサンブルがあることを述べていると思う。本書全編はこの説明だったとも言えるが、明瞭とは言い難いがカントの意図を良く表していると思った。また、本書末尾に展開される、「自然」から「歴史」へのカント哲学のメッセージは、これまたヘーゲル哲学を髣髴とさせ、つまり、ヘーゲルはカントのvariationだったとさえ言いたくなる説明だが、おもしろく、説得力があった。解説者が言うような自然の狡知と理性の狡知に差は無いのが実情で、「残酷な歴史観」と言う点でも同じだ。でも、本書末尾の解説は、ずば抜けていて、故意に不明瞭な本文の理解を助けてくれるばかりか、ドゥルーズ哲学がカント、他の哲学者との関係で鳥瞰できる。とはいえ、「潜在性」「差異」「現実化」などドゥルーズ独自の思想は解説者が言うような「暴走」も「独創性」もあるとは思えなかった。独創的とまでは行かず、むしろ、分かりにくいが独特の哲学解釈の叙述に魅力があるように思う。