『浅岸村の鼠』の作家の、十数年後の作品である。昭和十年代半ばの前著に対し、本書は二十年代後半。風刺性が強いといおうか。そのぶん土着的な雰囲気が薄れているかもしれないが、面白さ、おかしさがまともに伝わってきて分かりやすい。その風刺の目は、作家特有の想像力が働いて、独特なユーモアがかもしだされる。それは、カエルを擬人化しながら単なる人間もどきにしていないせいだろう。例えば、瞼を二重に手術する人間界の流行がカエル界に移されると、瞼の開閉を緩やかにする手術になる。こんなひとひねりが、人間の愚行をちくりと刺して笑わせる。さて――話は、雨ガエル小学校での「恋愛」騒動を縦軸に展開する。オスガエルの先生と授業参観にきた未亡人ガエルが互いに恋のとりことなり、あろうことか授業の最中に「恋愛」を始めた。といっても、人間や他の動物のように卑しい真似はしない。ただ互いに見つめあい恍惚たる時間を共有するという、まことに優雅な(?)恋愛。これをめぐってカンカンガクガクやりとりがなされるなか、作者はカエル界の諸相に触れていく。「古池や蛙飛び込む水の音」をめぐるカエル文学界の諸説。人間の酒を飲みたいと野望を抱いた飲み助ガエルの顛末。俗物政治家ガエル・大臣を勤める哲学者ガエル・評論家ガエルの鼎談(それもテレビ中継)。さらにはナマズの子に間違えられたオタマジャクシの奇跡の生還と悲しい結末。校長ガエルが「カンネンのホゾをかため」ようとしたら、ヘソがないのでかためられない。
本書では『浅岸村の鼠』と趣向を変え、カエル諸氏にカタカナ塊??前が付される。どこかハイカラな印象を与えるそれらのうち、ケロツトシタン党の政治家ズルーイヤだの文化省大臣アマノスキーだのは、にやりと頷けるが……。ところで「恋愛」の顛末は思いがけない終幕を迎える。が、ここはミステリー評の約束事ではないけれど、読んでのお楽しみとしておこう。