なんといっても、ディーン。
ディーンはまさに路上の男、誕生したのも路上で一九二六年、ロサンジェルスへ向かう両親がユタのソルトレイク・シティを通過しているとき、ボロ車のなかで生まれた。
(前略)そのうち、ぼくまでもだんだんディーンみたいになってきた。やつは生きることに興奮しまくっている若者だった。ペテン師だが、ひとをペテンにかけるのも思いっきり生きたいからで、そうでもしなきゃ見向きもしてくれない連中と付き合うためだった。
ディーンの駐車場での働きぶり、その描写はどうだ。
車を時速四〇マイル(65km)で窮屈なスペースにバックさせると壁ぎりぎりで停め、ひょいと飛び降り、フェンダーのあいだを駆けぬけ、今度は別な車に飛び乗り、時速五〇マイルで狭い空間を抜け、バックで狭苦しい場所に突っこんでサイドブレーキで停めて、ゆらゆら揺れている車からぴょんと飛び出す。
云々と、息つく暇ないディーンの働きぶりが息つく暇ない描写によって見事、再現されている。ディーンはとまらない。
ディーンはエンジンを切り、クラッチを入れると、あらゆるヘアピン・カーブをものともせず、つぎつぎと車を追い越し、いろんな本に書いてあることぜんぶをアクセルを踏まずにやりとげた。(中略)やつは第一級の追い越しのリズムと楽しみをすべて承知していた。
ディーンによる「アルトサックス吹き」に対する評言は、こうだ。
(前略)吹きながら橋を渡り、また引き返し、そうしながら無限に感情をはたらかせて魂を探りながら瞬間の音色を求めていくと、徐々にみんなにもわかってくるんだよ。大事なのは音色じゃない、アレなんだってな――
「アレ」って、なんなんだ?
(前略)壁に掛かった一枚の絵に身を固くして注意を向けた。近づいていって至近でながめ、後ろにさがり、しゃがみ、跳びはね、あらゆる角度から見ようとし、Tシャツをぐいっとつかんで叫んだ。「くそったれ!」(中略)ディーンを見るみんなの顔が母親のような父親のような愛情で輝きはじめた。とうとうやつは天使になった。
書き写してみたくなる文章やフレーズもある。たとえば、
(前略)なにごとも、内側は終わりもなく始まりもなく、空っぽだ。無知がさまざまな悲しい形になる。
とか、
ここにぼくはなにしに来たのか? ぼくの中国行きのスロー・ボートはどこだ?
とか。「中国行きのスロー・ボート」。まったく未知の、はるか遠くにある、異世界への憧れ、その象徴が中国! そして、そこへは、「スロー」に「ボート」で向かう。ふむ! まったく、途方もなく気が遠くなりそうだ。象徴だけれど。
さらには「なんというわびしさ!」とか、「大先生に新思想は吹き込むな」とか。作中に、ちらと登場する『ドクター・サックス』、という物語も興味深い。
本書「解説」で著者は、「ケルアックはおなじ言葉を何度もためらわず使う」と指摘。その具体例をいくつか挙げているが、そこからは漏れたものとして、「幽霊」あるいは「亡霊」を紹介する。たとえば、「幽霊の人生」、「ジャック・ロンドンの時代のサンフランシスコの亡霊」、「昔の船長たちの幽霊」、「やつれた幽霊」、「サスケハナ川の幽霊」、「毛むくじゃらの幽霊」、「歩道に幽霊」、……、というように。「幽霊」あるいは「亡霊」なんかは、この世から叩き(beat)出された存在としての「ビート」の感覚が宿っているのかもしれない。
どこにいようが、おれのトランクはベッドの下からいつでも取り出せるようになっている。いつでも出ていける。いつ叩き出されてもいいようになってる。
くたくた(beat)なトランク一つで、ディーンは出て行く。叩き(beat)出されてディーンは出て行く。
そのほか、書きたいことがあるような気がするが、きりがないので、これにておしまい。