私はクラッシックファンになって、もう50年近くたとうとしているが、レコー○○○術なんかを中心とする評論家の評をまともに読まなくなって(数少ない例外が吉田秀和だが)、もう何年たつだろうか、あそこで出ている評は、かなりの部分がその時々にレコード会社が売りにだしている演奏家やCDのちょうちん持ちを、さも自分は新しい発見したように、やっているのに過ぎないのではないか、と思っている。その証拠に、自己分析もなくかつてと違うことを言って平然としている。したがって市場価値が下がったら、お払い箱となる(ベームに対する評価がいい例だ)。
この人の評で、特にいいと思うのは、そんなことにあまり関わらず、なぜその演奏が面白いと思っているのか、が実によくわかる(意見に賛成するか否かにかかわらず)ところで、その点では、宇野氏や吉田氏(この人の評がすばらしいのは単に文章がいいとか、背景にある教養のレベルが高いとかいうところではなく、わかりやすいところだと思う)に匹敵する。これを読んだだけで、スベトラーノフのレスピーギとか、レニングラード(小太鼓の表現とか)とか、エンリケ・バティスとかもう聞きたくなってしまう。また、ベームのフィガロの結婚を評して、愛と許しの概念を堅固な演奏の中に示す、といった言い方で、これはモーツアルトの第9である、と言っている。この比喩の卓抜さ。ニコライエヴァの晩年の演奏に対する表現等々。
ただしムラビンスキーの田園に対する評価は感心しない(ムラビンスキーの演奏が悪いと言っているのではない、念のため)、要するに、あまりに超越していて何も書けない、とかいう表現はいただけなかった。こんな抽象的な表現は、数年前になくなった“有名な”評論家のKu氏が良く使っていた表現で(例えば、ここでのクーベリックは何もしていないように見えながら、正に彼以外ではなしえないような・・・とかいう、勿体つけている割に何も中身のない、という表現のことだが)、これでは例えば、どんな演奏かわからない。