従来の学問的研究はオウム真理教を適切に論じてこなかった。という挑発的な構えから、オウムという戦後宗教史の大問題が発生してくる思想史的なバックグラウンドを論じた非常に興味深い著作である。著者はキリスト教思想史を専門とする気鋭の宗教学者。いわく、オウムはよくいわれるような1970・80年代日本の精神状況の産物ではなく、キリスト教の「鬼子」である「近代」における「宗教」のもつ構造的な「歪み」から生まれてきた、ある種の必然性すら有する申し子である。
ロマン主義・全体主義・原理主義。オウムはこの三要素から説明可能であると著者は断じる。そして、この三つの系譜に属する思想や運動を近現代史のなかからピックアップし、その変遷を辿りながら、オウム以前におけるオウム的な心性の発露の展開を跡付け、考察していく。込み入った言説たっぷりの対象を手際よく整理し分析する著者の堅実な文章により、オウムの特異性とされるものが実は近現代史にありふれた現象や思惟であることがだんだんとわかってきて意義深い。
本書がオウム論の新境地を切り開く力作であることは間違いない。だが、こうしたスタンスがオウム研究にとって生産的な行き方かといえば、疑問である。少なくとも、あの宗教は何であり、なぜあのような事件が起こってしまったのか、という問題を解明するためには、オウム教団の布教・教化や活動・犯罪の実態と、それを時に面白がり時に非難する社会との交渉を、できる限りの資料収集に基づき考えていく必要があるだろう。著者はオウム事件により躓いた宗教学の再構築を志すというが、本書が試みているようなアームチェア宗教学の視野狭窄こそが、宗教学がオウムの危うさを見抜けなかった元凶のひとつではないだろうか。