藤沢氏は西洋古典研究者きっての名文家で、プラトンなどでは、代名詞や関係代名詞の解釈に疑問を残さない素晴らしい翻訳を手掛けておられます。ところが、本書では、どういうわけか語彙の解釈が大変ラフで、結果としてソポクレスの文章を正確に伝えていません。凡例で、氏は、かなりの部分をJebbの註に負っていると書いておられますが、訳文に疑問のある箇所に限ってJebbの英訳からも逸脱しています。コロスの合唱にいたっては、擬古文調でかなり凝縮された記述になっていて、大意を伝えるのみに止まっています。意識的にそうされたことでしょうが、やはり、原文と逐語的に対応できる範囲で訳して頂きたかったと思います。
読者の大半は原文に拘らないと思いますし、私自身も半可通ぶって原典主義を押し付けるつもりもありません。でも、原著者の文章が大変技巧的に工夫されていることを考えると、繊細な語彙選択や語法が伝わるのと伝わらないのでは大きな違いだと思うのです。多くの読者は複数の翻訳を比較しながら読むということはしません。作品と読者の関係がほぼ一期一会である以上、翻訳者には、大雑把な解釈よりも地道な移し替えと丁寧な文章の組立を心がけて欲しいと思います。あくまでレヴュアーの個人的な見解ですけれども。
いずれにせよ、ゼミなどで原典を読まれる方にはこの訳を参考にすることはお奨めしません。私が読んだ限りでは、高津春繁訳(『ギリシア悲劇 II ソポクレス』ちくま文庫 所収)がいちばん標準的で正確に思われます。
一方で、本書の解説は大変参考になります。アリストテレス『詩学』による標準的な説明やプルタルコスの記事の引用、ホメロスに基づく伝説の検証や、アイスキュロスの『テーバイ攻めの七将』から『オイディプス』の失われた三部作の全貌を推測するあたりは、とても示唆に富んでいて一読の価値があります。