パーキンソン病患者の脳に(中絶した)胎児の脳から抽出したドーパミン分泌細胞を注入すると程度の差はあれ病状が改善するという医学的事実があります。
海外での話ですが、以前このことを知った女性がパーキンソン病を患う自分の父親に、自らの卵子と父の精子を体外受精させて作った胎児を中絶し、その脳のドーパミン細胞を移植しようと考えたことがありました。結局これは父親が断ったために実現されませんでした。
さて、この『エンブリオ』では自分の妻との間にできた胎児の脳を治療に用いたパーキンソン病患者が登場します。これが現実に起きたとして、はたして倫理的に許される行為でしょうか。
医療や生命科学の各分野はどれもそうなのでしょうが、その最先端では我々の「生命」をめぐる常識的理解を遥かに超えた行為が行われている、あるいは可能になりつつあります。生殖医療然り、再生医療然り、ES細胞研究然り。この作品は主に生殖医学を扱ったものなのですが、例えば死亡した男性の冷凍保存精子と中絶退治の卵子を受精させて、出生時この世には実在していない両親をを持った子を作り出すというような実験が行われたりしています。
この他にもさまざまな事例が作中に登場するのですが、いずれも既成の倫理的枠組みでは把握できないものばかりです。現代科学技術によって人類の長い伝統的倫理観念や人間観そのものが劇的な改変をいやおうなしにせまられている。そのことが実感できる小説です。主人公の無分別な実験狂ぶりを見ても、こうした問題は専門家だけではなく市民の一人ひとりが真摯に取り組むべきものなのだと思い知らされます。
社会・倫理的側面のほかに僕が魅力を感じたのはいわゆる「大人の」場面ですね。「医者はこんなときまで医者なんだなあ……」と関心してしまいます。淡々とした描写がむしろエロティックでいいですね……。