なかなか手強い本である。かなり周到でしかも哲学的な問いがちりばめられているが、あえて筆者は、そのようなことには触れず、やさしい語り口で、諄々と説き起こしている。この本を読み解くには、実存主義、現象学、文化人類学等の素養がなければ、筆者の問題提起を理解するのは難しいだろが、必ずしも必要と言うわけではない。
真摯に筆者の声に耳を澄ませればいいのである。疑問に思った点を記載する。
「あるがまま」とは
本書の中で気がつくことは、客体的立場や主体的立場というものが本質的にないということ(自明のことであるが)を改めて記載していることだが、「あるがまま」という言葉が無造作に(著者が意識的に使用しているのかもしれないが)使用されていることである。視座が無数にあるのに、「あるがまま」とは、どのようなパースペクティブからとらえられているのか、今更カントに戻る必要はないだろうが、緻密な論理を展開をしている筆者が、ここでなぜ「あるがまま」(P22には、事象の客観的側面と記載されているが)という無防備とも言える言及をしているのか、不明である。
フィールドとの板挟み
関心や興味がなく、たまたまそのフィールドに赴いた場合には、フィールドになじめないということは理解できるが、あるフィールドに出かけ、なじんでいくうちに、その場の持つ価値観と自分の価値観の相違があらわになって、足が遠のくようになったからというだけで、別なフィールドを探すということになって良いのだろうか。筆者は、第1にその場を描き、次に第1次メタ観察、第2次メタ観察と進むようにと言っている。とすれば、自分と価値観が違うフィールドにおいての関与観察する主体としての自分とは何かと問いかけるべきではないかと展開すべきではないか。やや、ここの文章の流れは、安易に過ぎる印象を受けた。
調査する側の倫理
最終的にここまで文化人類学的記述を求めるとなると、オリエンタリズム、文化相対主義、調査する側の倫理が問われることになるろう。さらに、中学生以上との関与観察であれば、できあがった記述を相手に見せて、了解を求めるというレベルではなく、相手とともに作り上げるというレベルでなければ、記述そのものが成立しないということまでを考えて、著者はこの書物を記載しているならば頷けるところがあるが、それまでは求めないと言うならば、単なるいいとこ取りをしているのではないかとの批判にどう応えるのだろうか。
しかし、久しぶりに文章を書くとは、どのようなことかということについての考察を味わうことができた。残るのは、我々はテキスト解釈の無限後退に至らない道はありえるのかということである。