苟もある国の「独立」過程を論じるのに、その国の言語で書かれた一次資料を使わないなどというのは、私個人としては全く信じられないことだ。エストニア・ナショナリストたちにとって、エストニア語はナショナリズム運動のシンボルとして、独立の表象として、非常に重要であったし、実際多数の「宣言」や「パンフレット」「新聞」などがエストニア語で書かれ印刷された。かれらの独立への熱き思いは、こうした一次資料の活用と解釈なくしては伝わるはずもないと思う。
また、政治学分野からの事例研究として評価した場合、本のタイトルは「エストニア国家の形成」となっているものの、肝心の国家形成について、通常政治学者が用いるような、理論モデルや理論仮説が分析道具として全く使われていないのは不可解である。こうした作業を経てはじめて、エストニアの国家形成の過程がより客観的になり、政治学的に理解しやすくなる。と、同時にそのユニークさが浮き彫りにされるからである。
他方、そうかといって、エストニア国家の形成過程から抽出された国家形成のパターンを(たとえばレイプハルトが行ったように)今後の小国研究のために「モデル化」しているかといえば、そうした努力もなされているとは言い難い。いずれにせよ、理論や分析モデルの必要性は、たとえば西欧政治史研究のパイオニアである篠原一氏の一連の研究などに触れていれば当然意識される筈なのだが。
残念ながら本書は、時系列に即して記述された歴史書としても、政治学者による(小国の)政治史研究あるいは事例研究としても、はなはだ中途半端な感じがつきまとい、物足りなさを強く感じる。一体どのような読者を想定して書かれたのだろうか。