ある意味できわめて「いかがわしい」主題を追究していく著者の筆致はむしろ篤実と形容しうるもので、読んで不愉快な思いは抱かなかった。ただ先行レビューにある「物足りない」の評語にも一理あって、しかし私としてはこれを「短すぎる」と言いなおしたいのだが、ではどう「短すぎる」のか?
本書においては2つの「エスの系譜」の峻別が語りを駆動するのだが、例えばシェリングが Es denkt の定式に in mir を付加したことで Es の実体化に手を貸したと批判する一方で(p82)、イェルザレムも同じく Es denkt in mir. と書き付けているにも関わらず、「『存在』ではなく『出来事』を与える『判断機能』を強調する」がゆえに「第一の『エスの系譜』に連なることは明らか」と述べる(p117)。さらにシュタイナーの全く同じ言葉に対しても、「私たちは思考を知覚する、私たちは思考を受け入れる」という彼の主張によって、そこでは「『私の中で』は、もはやほとんど意味を失っている」としてこれを救おうとする(p175)。
対照的にハイデガーについては、「息子ヘルマンに時折『 Es denkt in mir. 私はそれに抵抗できない』と口にしていたハイデガーは、それが反ユダヤ主義にたやすく利用されること、そのために使われた論理がまさに自身が息子に語った『 Es denkt in mir 』から引き出されたことに気づいていただろうか」(p221)と批判される。
あるいはフロイト自身の『自我とエス』における「心霊現象に対する肯定的な姿勢。そして、その裏側にほの見える獲得形質の遺伝を是認する態度」(p160)を指摘しつつ、「『自然の物質化』から出現したナチスによって亡命を余儀なくされたユダヤ人フロイト」(p138)が、「そこにどんな危険が秘められているのかを(中略)承知していないはずはなかった」(p160)からには、「そこに潜む動機」(p139)を探らねばならない、と問題設定する。
著者のこれらの批判や擁護や問題設定は、正しいのかもしれない。しかしその正しさは説得的に論じられるというよりも、前提とされ、天下り式に宣言されているように思う。言い方を変えれば、この本は何か別の重要な著作のシノプシスのようだ。それが「短さ」の印象を与えるのではないか?
とは言え、後書きによれば本書の原型は著者の学位論文の序章として書かれていたそうで、そういうものとして見れば、この「短すぎる」という印象は瑕ではないのかも知れない。この学位論文に基づく著者の前著『
フェルディナン・ド・ソシュール』(これは分厚い!)を私は未読なのだが、機会があれば併せ読んでみたいと思っている。
しかし、それでもやはり本書に対する不満はある。具体的には、本書では外国語文献の引用は邦訳のあるものもすべて著者が自分で訳しているのだが、この訳文にしばしば違和感を抱かされた。その際たるものが、本書中でも最重要の文献と言うべきランボーの第2の「見者の手紙」からの「年老いた愚か者どもが自己について見出さなかったのが間違った意義だけではなかったら、果てしない昔から不完全な知性で作品を積み重ね、自分がその著者だと大声で叫んできた何百万もの骸骨を一掃する必要はなかったでしょう!」(p45)という引用で、この訳文を何度読み返しても頭の中に意味の像が結ばない私は、知的に問題があるのだろうか?
因みに原文は Si les vieux imb'ciles n'avaient pas trouv' du Moi que la signification fausse, nous n'aurions pas ' balayer ces millions de squelettes qui, depuis un temps infini, ! ont accumul' les produits de leur intelligence borgnesse, en s'en clamant les auteurs ! で、こちらは何とか理解は出来るつもりでいる。