今をときめくJ. J. エイブラムズ(J. J. Abrams)が制作したTVシリーズである。
質的な向上をつづける今日のTVドラマ界の諸作品と比較すると、正直なところ、随分と古臭さを感じさせるが、それでも娯楽作品としては十分に楽しむことができる。
但し、看過できない問題も存在する。
とりわけ、最終シーズンである第5期には、あからさまな問題が露呈している。
第5期は、物語の辻褄を無理にあわせようとするために、物語の展開があまりにも乱暴である。
また、主演女優が妊娠したために、この作品の物語を推進するための重要な要素であるアクション・シーンを殆ど演じることができないという状況が発生したために、作品は実質的に推進力を喪失した状態に陥っている。
確かに、最終シーズンにおいて、こうしたあからさまな質的な劣化をしてしまうというのは、TV番組にはしばしばあることだ(特に、TVでの成功を契機として、看板俳優が劇場作品に活動の舞台を移行していくなかで、TV作品が等閑にされてしまうという状況は頻繁にあること)。
しかし、それは、数年にわたり、作品につきあってきた視聴者に対して、非常に失礼なことではないだろうか……。
J. J. エイブラムズの作風をひとことで形容するとすれば、それは「微温的な職人気質」ということができるだろう。
視聴者を飽きさせることのない十分な娯楽を提供することのできる卓越した職人であることは明らかである。
しかし、また、その作品がことごとく視聴者の期待通りにこじんまりとまとめられたものであるために、鑑賞後、視聴者はこころのなかに何も残っていないことに漠然とした空しさをいだかされる。
作家としての本質的な凡庸性を漂わせる存在――エイブラムズとは、そんなひとである。
Mission Impossible IIIの監督が決定するまでに、候補者としてデイヴィッド・フィンチャー(David Fincher)やジョー・カーナハン(Joe Carnahan)の名前があげられたということだが、最終的にエイブラムズに落ち着いたという報せを聞いて、随分と落胆したひともいることだろう。
エイブラムズが監督した作品が決して視聴者を驚かしてくれるようなものではないことを誰もが承知しているのである。
『エイリアス』(“Alias”)という作品もそんな作品である。
あらゆる意味において「常識的」な娯楽作品なのである。
もちろん、われわれは娯楽を求めているのだから、それが見事な職人的技量に裏付けられた立派な娯楽作品であることは批判されるようなことではない。
問題は、そうした枠組みに収まりきれずに溢れ出てくるものが、この作家には殆ど感じられないということである。
フィンチャーやカーナハンの名前がMission Impossible IIIの監督候補としてあげられたときに、視聴者がこころを躍らせたのは、彼等がもつそうした「収まりきれないもの」に期待をしたからである。
その意味では、『エイリアス』という作品をひとことで形容するとすれば、次のように表現することができるだろう。
十分に楽しく、そして、些かの驚きもあたえてくれない、いわば、凡庸であることを美徳とするような作品である――と。