「独我論」という視点から、ウィトゲンシュタインを読み解いた力作。前期の『論考』から、中期の『青色本』を経て、後期の『探究』まで、ウィトゲンシュタインが、「私」という特異な主題と格闘した経過がよく分かる。著者によれば、「本当の意味で存在するのは私だけだ」という「いわゆる独我論」を批判して、「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」という、『論考』における「ウィトゲンシュタインの独我論」が成立した。そのポイントは、通常は「存在と無の間に境界線は引けない」のに対して、「言語においてのみ限界が引ける」という点にある。なぜなら、言語に着目すれば、「無意味と有意味の間に境界線が引ける」からだ(p61f)。これは鋭い考察だ。
中期についても、シュリックやストローソンの「無主体論」という凡庸な解釈を、著者は退ける。「無主体論」と「直接経験による検証主義」の葛藤こそがウィトゲンシュタインの思索を導き、その葛藤が、「類比を通じた移行」という発想に至り、それが後期の「家族的類似性」という「言語ゲーム」概念に繋がった。そして著者は、本書第三章で、「私的言語」をめぐる「感覚日記」の議論を読み解く(p102〜116)。ここは最高にスリリングな箇所だ。「人々がそれぞれ異なった規則に従う」ことを我々が理解するのは、「規則に従う」とは何かの理解が同一だからこそそう言える(102)。そして感覚が私的であるのは「文法によって」そうなのだから、そこではもうすでに文法に依存しており、したがって記号「E」は私的言語であることはできない(110)。どこまで追い求めても、「私」は、「われわれの言語」に回収されるか、無意味になるかいずれかであり、「私的言語」という落とし所はないというのが結論。