『論考』についてのこれほど明快な本はなかった。
あまりによく解るので、不安になることもある。『論考』は難解さで知られおり、Fregeは論考を読んで理解できないと告白し、Russellは『論考』を読んで感銘を受けて序文を書いたが、WittgensteinはRussellの理解は正しくないと言っている。RussellやFregeのような論理学史上最高の頭脳たちが理解できなかったことを私がこれほどはっきりわかるのだろうか。
野矢氏によれば、内的形式、論理形式、対象の内的性質、対象の形式、対象の論理形式などの用語は全て同じものである。こう断言してもらうと確かに理解しやすい。しかしWittgensteinは異常なくらいに言語を吟味したはずなので、言い切って良いのかどうか。
Russellのパラドックスの解決に関する部分は面白かったが、命題の定義域と値域を明確にすることでパラドックスを解消するという方法はあまりにナイーブで、Wittgensteinがこのように考えたとは思いにくい。この方法は数学を専門とする人ならすぐに理解できるから、Russellが反論の文章を書いているはずである。
また野矢氏はWittgensteinにとっての神の問題の重要さを書いていない。Wittgensteinにとっては、宗教と神の問題は一生を通じて重くのしかかっていた。そして、『論考』のテーマには深く宗教が関わっている。野矢氏の関心は宗教にはないとしても、この点は見過ごしにできない。
明快な解説に喝采を送りながらも、このような疑問に囚われつつ読んだ。そうして読んでいるうちに、『論考』の理解においては、まず野矢氏のようにある程度割り切って明快さを求め、大枠をつかんでから細部をもっと精密に読むという方法が一番優れているかもしれないと考えるようになった。このことで論考は手の届く書物となるのだから。