映画が始まってから数分で、本作に存在する二つの視点にやられるだろう。
俳優を目指すジョニー(パディ・コンシダイン)の夢を引っ提げて、アメリカに入国するひとつの家族。父ジョニー、母サラ(サマンサ・モートン)、長女クリスティ(サラ・ボルジャー)、次女アリエル(エマ・ボルジャー)、この家族にある二つの視点とは、つまり、親と子によるものだ。
主の俳優業の芽が出ないまま、夏の暑さも冬の寒さも、もろに影響を受けそうなボロアパートで暮らし、たかが25セントの支払いにも腐心するような生活。そんな貧しい家族を、まず子供たちが救う。クリスティによるビデオカメラの映像とナレーションなどの描写の純粋さに思わず見(聞き)入ってしまい、画面に映るだけで無垢なエネルギーを発散させるアリエルに脱帽する。おそらく彼女たちには、ネオンや喧騒で渦巻く街中にいて、それらを「虹」のごとく感じられる視点を持っている(あるいは維持している)のだと思う。同じものを見ていても、彼女たちはまったく別の美しいものを見ているような気がしてならないのだ。そして、そんな視点を培えたのは、間違いなく親の存在が大きい。仕事にありつけない苦悩、幼くして亡くした息子フランキーの影、ジョニーとサラは明らかにギリギリの場所にいる。けれど子供たちを前にしたときの彼らの姿はどうだろう。娘たちに美しいものを見せようと必死である。自分がどれだけ参っていようと、だ。はたして、この原動力はどこからくるのか。それは、やはり、子供たちの姿ではないだろうか。
本作は、つまり、このサイクルなのである。ひたすら交わされる親と子のギブ・アンド・テイク。その最大の収穫は、子供の視点だろう。世界が美しいと信じることは、希望を持つことと同義だ。一家に宝くじなど当たらない。けれど奇跡はもう起きているのだ。