本書は、佐々井秀嶺師の依頼により著者が留学僧として受け入れたサンガラトナの成長素描の書であるが、それとは直接関係ない部分で必読の箇所が2つある。
1つ目は、著者自身があとがきで、“実は一番最後に書き上げた。他の章とは独立した内容となっている。”と述べた「宗教とは何か」である。そこで著者は、ブッダの説く『縁起』から「神(仏)」=「人間」(p.80)を導き、そのことによってブッダの最後の教えがなぜ『自灯明、法灯明』(p.82)なのか、なぜ『仏灯明、法灯明』でないのかを説明する。そして、『三宝(仏・法・僧)帰依』すら、ブッダの教えを逸脱しているのではないか、と指摘する。
2つ目は、アンベードカルの仏教理解の間違いを指摘していることである。“アンベードカルの仏教理解の中で、最大のウィーク・ポイントは、覚(解脱)やダンマ(法)に関する理解不足であった。すぐれて社会的人間であった彼は、同時に宗教的人間であり得なかったのである。(p.230)”しかし一方で、インド仏教徒が日本僧に対して、“日本の仏教は祈ったり拝んだりする宗教だそうだが、我々の仏教は違う。我々の仏教は、考えて、そして行動する宗教なんだ!(p.222)”と述べた話を紹介している。アンベードカルがインド仏教徒に伝えた「仏教の本質」は、彼の理解し得なかった弱点を補って余りあった訳である。