フッサールの著作の中で、1冊となると、この「イデーン1」に限ると思う。翻訳は理想的なもので、内容の難解さを除けば、全く難しくしていない素晴らしいもの。内容は難解とは言え、フッサールのほかの書物より遥かに明快。しかも、本書には、フッサールのコアになる思想がほぼ全て語られている。ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティと後続の思想家に圧倒的な影響を与えたことがそれと分かる叙述が捨て難い。フッサールは、前期中期後期と思想が大きく動き、本書だけではその一端しか分からない、とか、ハイデガーは「論理学研究」の影響を受け、メルロ=ポンティは、後期の影響下にあると言うのが定説で、きっとそうなのだろうが、しかし、本書を読んでみると、「存在と時間」や所謂「身体」論に露骨に影響を与えたとしか思えない叙述が頻出する。現象学とは、その方法を事態と切り離して語るよりは、むしろ、実際に展開して見せる中に真髄が現れるという、本物の方法論である。意識の機能を事細かく取りこぼさないように、しかし、「流れ」のなかで追い求める視点は、息を呑む充実感がある。一方で、反省する意識の中で、「現実」とは異なっていくジレンマをも取りこぼさない真剣勝負がある。却ってそこに現象学的還元の意味を見出そうと随分と苦労している。「論理学研究」以来の「概念や法則といった普遍者というイデア性がどのように認識主体のものになっていくか」このテーマに対決している点では、本書も同じテーマにあると思える。個人的には、そのテーマは興味深いし、ウィトゲンシュタインの後期の著作とともに、最も刺激的な研究書だと思うが、一方で、「事実学」と「本質学」を分けて真なる学の基礎を築こうという野心は、現象学らしからぬ思い込みの出発に思われ違和感が残る。都合の良い「判断中止」もさることながら、「現象学的還元」によって、体験とは異なる意識内容を吟味することが、「正しい道」をなぜ保証するのか、不明な点も多い。だが、そんな疑問は別にして、叙述そのものが「哲学」であり、抗することの出来ぬ魅力がある。意識の外へ出ることを敢えて拒絶する徹底した態度も面白いが、実際の叙述では、かなり揺れており、意識の外や、外部、向こう側、といった、表現がやむを得なく頻出し、どこかで、外部先取りしている点は否めず、現象学的方法の無理なところが露呈されている。だが、その点もむしろ思考としては魅力的だ。「判断中止」「ノエシス・ノエマ」「還元」などなど現象学用語が実地に使用されているのはまさに本書だ。少し値が張るが、本書2巻をまず読めばよく、迂回すると却って高くつくと思う。その後はむしろ「論理学研究」だと思う。