本書を精読しておくと、おそらくは、モチーフとしては、後年の大著「コミュニケイション的行為の理論」においても、活きており、大きくは変わっていないことが分かる。「目的合理的」行為(対自然的行為)を合理性の基本モデルとして展開してきたこれまでの理論の限界をついて、相互作用における合理性、対話的合意に基づく合理性を取り出し、疎外物象化の近代の閉塞を打破する武器として、活用しようというモチーフは本書以来変わらないものだ。そして対話的合意こそが、実は「近代」が獲得した財産として、「近代」を積極的に生かしていこうという姿勢も、後ろ向きな議論に終始してしまった西欧マルクス主義の行き詰まりを克服するものだ。主著「コミュニケイション的行為の理論」は、このモチーフに言語論的な理論的な裏づけをつけ、また、上記の二つの「合理性」を軸に、「合理性」の理論史、「近代化論」の理論史を位置づけているとも言える。それから、本書は、学生運動華やかなりし頃の議論で、やや大人の無責任な発言ではないかと思える勇み足があるが、当時のインテリのスタンスが、案外西側諸国で日本と大差なかったことを示す記録としても興味深い。