イスラム世界に関する議論は英語が圧倒的です。英語での議論はいずれも、現地の実状に対し、検証や批判を前提に為されます。しかし日本での議論は往々にして、反欧米感情の裏返しである護教論に傾斜しがちで、検証や批判に耐えられず、現地の実状と内容が乖離し過ぎる事が多い。しかし日本でだけはそれが事実であるかのように認識されてしまった事柄が数多くあり、本書の内容はそれらを再度客観的に掘り下げて検証したものです。
本書で最も新鮮なのが、欧米のムスリム移民政策を巡る内容です。日本では往々にして「欧米のムスリムへの差別」と一方的に切り捨てられがちですが、実際には多文化主義を掲げるイギリス、共和主義を掲げるフランスという具合に国によって政策が違います。またフランスでは政教分離や信教の自由を前提にしてヴェール問題が起こりましたが、一方で出生率の低下や外婚率の上昇という形でムスリム移民の同化も進行しています。一方でイギリスでは多文化主義が逆にムスリムの分離志向を急進化させ、ロンドニスタンを生み出す結果となっているように、国によってムスリムとの間に生じる問題も様々です。
政教関係を巡る内容も新鮮です。日本ではイスラムの政教一致が当然のような議論が頻繁に聞かれますが、実際にはカリフとウラマーの役割分担は10世紀頃から進行し、またイスラムの政治への位置づけに関して少なくともイデオロギー型とユートピア型の政治思想があるように、政治と宗教の境界面や相互関係も国によって多様かつ複雑です。
このように日本でのイスラム護教論は極めてあやふやな前提の上に成り立っている物が多い。検証や批判にすら耐えられない護教論が「研究」としてまかり通る日本の「イスラム研究」とは一体何なのかとつくづく思いますが、こうした当たり前の姿勢や手順を重視している池内氏の著書は、他のイスラム書籍にない新鮮さがあると思います。