親子というのは不思議なもので、ものすごく仲の良い姉妹のような母と娘もあれば、血がつながっているのかと思うくらい隔たりのある母と娘もある。姉妹の仲も同様である。もっとも姉妹の場合は、母親がどちらかを偏愛するところから、愛情争いあり地獄に落ち込んでしまう場合が多い。いずれにせよ、より多く愛されたいと願うところから軋轢は生じる。
母は何故、娘を愛せないのだろうか。良くも悪くも自分に似ているからである。似て欲しいところは似てなくて、似て欲しくないところが似るというのは、往々にしてよくあることだ。何も母親が単に未熟な親というわけではない。その生育暦の中で「やり残された課題」であったり、「隠れた願望」が、特に同性の我が子の上に、無意識のうちに投影されるからである。
自分がイグアナだと知っているからこそ、その部分は見たくない。イグアナではない場合は、見ずに済むので受け入れられる。そういう心理的な葛藤を、何年も解消できずに年老いていく母親も哀れであれば、母の死により解放され、やっと母親を受け入れることのできる娘の立場も複雑である。何なれば、精神的な痛手から、虐待の歴史が繰り返されるかもしれないのだが、主人公は聡明にも母の苦しみを思いやり、「辛かったでしょ、苦しかったでしょ」と、共感を示す事ができて、母より一回り大きく成長するのである。
ここで重要な役割を果たす「イグアナ姫」の夢の場面は、童話「人魚姫」にも通じる。その独特の雰囲気を、萩尾望都ならではの画力でさらりと描き、物語からグロテスクさを消し去り、ユーモラスな哀しみといじらしさを添えている。