2002年から2004年にかけて、新約聖書の福音書をケセン語(岩手県気仙地方のことば)に訳して発表した著者の最新刊。気仙地方は今年3月の東日本大震災で甚大な被害を受け、著者の自宅や仕事場も被災し、ケセン語訳聖書の版元も津波をかぶってケセン語訳聖書の在庫も波に洗われた。ところがこの水をかぶった聖書が「お水くぐりの聖書」として話題になり、東北被災地復興支援の機運も相まって飛ぶように売れた。準備中だった世間語訳聖書(四福音書を幕末頃の日常語で訳した聖書)も「ガリラヤのイェシュー」として無事発売され、今回こうして新書まで出るというのは不思議な巡り合わせだ。
タイトルだけ見るとこれまでに著者が出してきたケセン語訳聖書の抜粋かダイジェスト版のようにも思えるが、この本は東日本大震災という未曾有の災害を体験した著者が、聖書の言葉をどう読むかというエッセイだ。ケセン語に訳された聖書の一部を紹介し、それにまつわる自分自身の考え方を述べていく。それは訳文の解説になっていることもあれば、著者自身の信仰告白になっている部分もあるが、巨大な災害をくぐり抜けて生き延びた著者の聖書を読む目は深みを増し、聖書の中のイエスの言葉は生き生きと豊かに立ち上がってくる。引用されている聖句はこれまで「ケセン語訳聖書」として発売されていた範囲を超えて、新約聖書の書簡や、旧約聖書にまで及んでいる。
イエス・キリストが生まれ育って主たる活動拠点としていたガリラヤは、ガリラヤ湖での漁業が主たる産業であり、イエスの弟子にも漁師出身者が多かったことはよく知られている。神殿のあるエルサレムから見ればこれは田舎町であり、イエスも弟子たちも粗野で無教養な田舎者だっただろう。しかし彼らの活動には、生活に根ざした力強さがある。その力強さが、著者の綴るケセンの言葉からダイナミックに伝わってくるのだ。この強さがあればこそ、キリスト教はその後数百年の迫害にもへこたれることなく耐え抜くことができたのかもしれない。
著者の聖書解釈に納得できない人も多いとは思う。特に既存の聖書翻訳の立場からは、ギリシャ語の語源にまで踏み込んで聖書を大胆に読み替えてしまう著者の主張に疑問の声が上がるかもしれない。僕も正直、「そこまで読み替えてしまえるものなのだろうか?」と思った部分がいくつかある。しかしそれより大きな魅力になっているのは、ケセン語訳されたイエスの言葉から伝わってくる「生きた人間の言葉」としての生々しさなのだ。これまでの聖書が新聞記事や雑誌記事のような伝聞情報だとすれば、この本の中のイエスの言葉は、テープレコーダーに吹き込まれた肉声を聞かされているようなリアリティがある。イエスの「逆説的な説教」の迫力が、ストレートに伝わってくるのだ。