「心の貧しい者は幸い」はイエスの言葉ではない、とするがその根拠たるや(1)「大切なイエスの言葉の一部を勝手に削除するより、後から何かを付加する可能性の方がずっと高い。」(2)「マタイは精神化・内面化・倫理化する傾向がある」などというもので、説得力のあるものなどとはとても言えない。まず(2)に関して言えば「ルカの「貧しい者は幸い」や「今泣いているものは幸い」がイエスの真の言葉である」を前提とした、いわゆる「結論を用いて論証する」という初歩的な誤謬であり、論外である。(1)に関しては「神を愛せ、隣人を愛せ」でのイエスによるシェマ・拝一神戒『聞け、イスラエル』以下の引用はマルコ書にあって平行するマタイ書に無い。「癲癇の子供の治癒」でもマルコの記すイエスの言葉の多くがマタイ書に欠落する。著者の理論ではこの場合マタイによる削除の可能性は低く「マルコの付加」となるはずだが著者はマルコ先行(=マタイの削除)を主張する。明らかに「付加する可能性のほうが高い」と矛盾する。つまり他所ではマタイによる削除の可能性の高さを主張し、「貧しい者は幸い」ではマタイによる付加だとする謂わばご都合主義の典型である。とても根拠と言えるようなものではない。「心の貧しい者は幸い」がイエスの言葉でないとの根拠は全く無いとなる。
なにしろマルコ先行のまともな根拠にお目にかかったことがない。新約学者たちはマルコ優位の文献的根拠を挙げることなく、中には「マルコ優位で研究者の見解は一致している」を根拠として挙げる者すらいる。天動説の頃と体質は全く変っていない。イエスの警告「闇を光と信じる」は今日の新約学者たちに実現したようだ。真実を描くマタイ書を巧みに封印した彼らに。
「平行記事を対観させれば素人でもマルコ優位がわかる」などと書いている人がいたが、どこを対観させた、とは記されていない。本当に対観させたのであろうか。先に挙げた「拝一神戒」から「唯一神宣言」の有無や「癲癇の子供」での「信仰問答」の有無、長血女性の平伏の有無などマタイ・マルコを対観させて判るのは護教に徹したマルコの付加・改変つまりマタイ書の優位ばかりである。