キリスト教の教義において、イエス・キリストは通常、完全に人であって、完全に神であると定義されている。
もちろん、これは論理学的には妙な定義に聞こえるが、だからこそ、信仰箇条として教えられてきた。
中世までは、イエス・キリストの神性を疑う考え方はほとんど出てこなかったが、近代以降、人間イエスの再現を試みる動きが出てきた。
信仰上のイエスではなく、実際に生きていた歴史上の人間イエスを再現する試みである。
しかし、現代においては、ほとんどの学者の間では歴史上のイエスを再現することは不可能と考えられている。イエス・キリストについて記載された第一級の資料は結局のところ福音書であり、これは本人が書いたものではない。イエスの死後、数十年経って別の人によって纏められた本である。したがって、彼らの信仰や視点といったフィルターなしに歴史上のイエス本人を見ることは結局の所、不可能なのである。
この後、出てきたのが「史的イエス論」という分野である。
歴史上のイエスを復元することはできない。と言って、信仰箇条が定義している内容を普通に理解することは難しい。何が難しいかを分かり易く言うと「完全に神である」という定義を前提にイエスが生まれたばかりの赤子の時から、父なる神と同等の知恵と知識を有していたという論理を立てたとすると、そのイエスはもはや「完全に人である」とは呼べない、人の形と体を持っているだけの神になってしまう。
だからと言って、信仰を守る立場で見た場合「完全に神である」という定義を捨てることは出来ない。
だから、どこで折り合いを付けるかという問題が出てくるのである。信仰箇条の定義を外さずに、理解可能なイエス像を描き出す試みがなされてきた。
本著はその一例である。
私自身は本著の考えに全面的に賛同はしないが、実際のところ「史的イエス論」という分野は、上述のような葛藤の上に立てられるので、同じ「史的イエス論」でも、人によって描かれるイエス像はかなり違ってしまう。
本著の説で、キリスト教徒間の意見が一番大きく分かれるであろう所は、イエス・キリストは自分の受難をいつ知ったかという点であろう。
著者はイエスが受難を認識したのは、公の福音宣教活動を始めてから大分経った頃に位置づけている。おそらく反発するキリスト教徒も多いだろう。私自身も反発するかどうかはさておき、その時点に受難に対するイエスの認識を置く蓋然性の担保がいまいち不足していると考えるので首肯しかねる。
ただし、本著の説はあくまで著者の信仰であり、著者の学説であるので、賛同する、しないはともかくこういうことを真剣に考えていくアプローチもあるのだという理解には役立つと思う。