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共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)から、
後世の解釈と思われる文脈をはずし、
イエス本来の言葉を再構築していこうとする試み。
大貫が浮かび上がらせようとしているのは、
イエスが言葉と行動で伝えようとした「神の国」である。
イエスが描く「神の国」は、
美しい神殿や取り澄ました祭司たちの世界とは程遠い。
まるで農村の婚礼のようににぎやかな「飲み食い」の世界、
精神的にも肉体的にも飢えた人々が、心ゆくまでごちそうを味わう世界なのである。
(「神の国とは飲み食いではない」とコリント人への手紙に書いているパウロには
「失礼ながら」との一文に、思わずにやりとした。)
イエスにとって「神の国」はいずれ来たる理想の世界ではなかった。
「もうすでに始まっている」というのである。
それを、イエスは「サタンが天から投げ落とされた」と表現する。
この、一見読み過ごしてしまいそうな一言を、
大貫は旧約時代から脈々と続く預言者たちの幻視体験に連なるものとする。
サタンの存在しない「神の国」(それは、もう始まっている!)/サタンが投げ落とされた「地上」(自分こそ正義だと思い込む人々が邪魔をする!)
古代人イエスがイメージするのは、そんな世界が同時に存在する「今」なのではないか。
さて、そんな「神の国」は、どうして「今、ここ」ではないのだろう。
十字架への道のりで、イエスは深い沈黙の中に落ち込む。
人類の歴史の中で、延々と繰り返されてきた問いかけである。
いささか唐突ながら、「夜と霧」(V.E.フランクル)の中の
アウシュビッツからの叫びを思い起こした。
21世紀の現在、
「神の名において」戦争が勃発し、目を覆わんばかりの悲劇が重ねられている。
そんな中、あらためて
キリスト教のルーツであるイエスの言行を探ることは、無駄な試みではないと思う。
本文にもあるように、本書を書く契機となったのは、ブッシュの原理主義的な演説である。こうした原理主義への疑問からこの道に足を踏み入れた著者は、そうした演説を含む原理主義の脳裏にあるキリスト教の「標準文法」(「神の子」イエスの生誕から「神の国」の到来まで)が、史的イエスからいかなる意味でズレて成立しているのかを、積年の蓄積から明らかにしようとしている。この著書の見所は、それゆえ、こうした契機に応えるために史的イエスを析出してみせたところにあるように思われた。
その課題は、イエスが「古代人」「神話的・前論理的」といった前提の下に、資料の「論理」が了解しかねるところに類型的な「イメージ」論を挿入させてゆくところにあり、これは方法論的にはかなり異質な志向性を持ったものであるだけに、イエスの歴史的事件と噛み合わせるには諸刃の刃といった感があり、そこが評価の分かれるところになるだろう。しかしながら、これまでの先行研究が避けてきた、もしくは、上手く説明しかねてきたところに、イエスが「神の国」というイメージを抱いたと想定することで、ある一貫した展望が見えてくることは示せているように思われた。
何よりも私が感心したのは、「還暦を前に」「自立」をしてみせたところであった。これはこの人生段階になればなおさら、なかなかできるものではあるまい。誰にとっても人生は初めてなのだ。その最初の一歩が多少ぐらついていても、それはちゃんと「ステージについた」ものとして歓迎したい、と私は思った。
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