19世紀ロシアの貴族の悲恋を描いた物語。文化、制度、宗教、そして都市vs農村など、その時代の「運命」を生きる人間の細部が、実に生き生きと描かれている。優れた既訳がある中で、望月氏の新訳は、硬過ぎもせず、くだけ過ぎてもいない、ゆったりとした優雅さを感じさせる。主人公アンナと運命の恋をする青年将校ヴロンスキーが、モスクワの停車場で初めてアンナを見かけた時の驚きの繊細な記述を比べてみよう。「それは彼女がすばらしい美人だったからでもなく、その姿全体にみられた粋な感じや、つつましやかな優雅さのためでもなくて、彼のそばを通りぬけていった時のその目鼻立ちのいい顔の表情にどこか特に甘えかかるような、色っぽさがあったからだった」(中村融訳、岩波文庫p116)。「相手が非常な美人だったからでも、その姿全体にただよっている繊細な感じや、つつましい優雅さのためでもなく、相手がそばを通り過ぎたとき、その愛らしい表情の中に、一種独特ないつくしむような、優しいところがあったからである」(木村浩訳、新潮文庫p128)。「相手がきわだった美人だったからでもなければ、全身から漂っている優雅さや淑(しと)やかさのせいでもなくて、相手が自分の脇を通り抜けるときのその愛らしい表情に、なにかしら特別に優しく暖かいものが感じられたからであった」(本訳p156)。