テクストを読み進めて行くうちに、アンドロイドがどんどん人間化して行くのに気づく。アンドロイドは味覚器官、アルコール陶酔器官、果ては快楽器官(性器)まで所有する。アンドロイドとの性交渉は禁止されているという説明つきでである。細部描写がサンエンティフィック・フィクションというカテゴリーをここまで破壊する強引な手だては、ひとえに読者にアンドロイドに対する共感を巻き起こしたい。これが作者のこの小説での眼目である。
これがクローンであったら、カズオイシグロがNever let me go で描いたように“正統人間”からの共感は容易に得られやすく、不自然でもない。しかしアンドロイドは、チキン質の皮膚の下は、数万の機械と電子部品からなる無機質である。所詮は人間の作った「道具」である。
しかしこの道具は人間との関わり方において、ハンナ・アレントが『人間の条件』で描く、仕事人の「道具」や労働者の「機械」の範囲をはるかに凌駕している。一方多神教世界では、道具に物神を見立ててこれを尊ぶ伝統的思想がある。ここでは、アンドロイドを人間の仲間に加えられるかどうかと言う人間のアイデンティティーに関わる問題が提起されているのである。アンドロイドが問題であるのではない。
だが、その答え自身は物語中に提示されているといわなければならない。アンドロイドも人間も同じといった多神教的原始宗教解釈なら、そもそもこの小説を成り立たせる意味がないのである。リックもレッシュも実はアンドロイドであるといった超解釈は除外されなければならない。繰り返すが、ここはあくまで人間が主役であるのであって、精巧なロボットに対する人間のアイデンティティーの自明な強さが試されているのである。読者がここでアンドロイドに共感してしまえばリックは単なる殺し屋になってしまう。そういう読みは許されていないと悟るべきである。
バウンティハンターのリック・デッカードは、レイチェルよりはルーバとの出会いでアンドロイドに感情移入してしまったと思われる。ルーバは『魔笛』を歌い、ムンクに感動する。ディックは 短編 James P. Crow で、ヒトの知性はロボットに及ばないが、ロボットにはない豊かな感情を持つ、と書いている。レイチェルも含め、登場するアンドロイドたちにはみな「豊かな感情」がある。ここも作者の仕掛けた罠である。
リックがアンドロイドに対する「共感の危機」から離脱するためには、真正な動物を所有する必要がある。大型であればある程よい。大型動物の世話は手が掛かるが、狩猟人間のDNAが呼び覚ますものがある。動物を所有するための負債も、言及されていないが、アンドロイドには許されない極めて人間的なものであろう。多分ここには植民地人がアンドロイドを奴隷として一切の労働から解放され、時には「愛人」としている堕落への対抗心があるのだろう。
イジドアも同じ。人間からは「スペシアル」とされ、一時はアンドロイドに「のけもの」同士の共感を感じ、彼等をかくまおうとする。しかしプリスがクモの脚を切るのを見て、有史以前からこの地球上であらゆる動物たちと共棲してきた人間のDNAの呼び覚ましが、捜査に来たリックに、アンドロイドが彼のアパートにいることを告げさせる。
結局ヒトにあって、アンドロイドにないものは、あらゆる種との、それこそ百万年に及ぶ共存関係だと言うことになる。動物との相互共感関係は証明されないが、彼等にとっても人間は様々な様相を見せながらも未知の生物ではない。複雑な筋立てながら、小説は実はこんな簡単なことをいっているのである。