最初に見たのは80年頃の三百人劇場でした。その後大井武蔵野館のオールナイトや有楽町の映画館で見ました。
同じタルコフスキーの「鏡」に次いで映画館で繰り返し見た映画です。
今見てみるとたしかにかなり露骨にソヴィエトの体制に対する当てこすりが出ていて、
現在になってみると、それがかえってこの映画の欠点になっているのではないかという気もします
(それでも星5つですが)。
言うまでもなく、この映画は(実は他のタルコフスキーの映画すべてに共通していることですが)
自分のことを描いています。芸術家同士のねたみや嫉妬。師匠に弟子入りするのですが、
師匠のフェオファン・グレクはギリシャから来た外国人です。
タルコフスキー自身がソ連以外の監督を師と仰いだことの暗示でしょうか。
ここでの同僚キリールの「ルブリョフには信仰心が欠けている。単純さがない云々」という批判はそ
のままソ連共産主義に対する信仰心の欠如と前作「僕の村は戦場だった」への当てこすりでしょう。
同時に民衆の苦しみとみずからが恵まれた環境で芸術に打ち込めることに対して矛盾も感じ始めます。
土着的な祭りのエピソードでは、それがさらに強調されます。
このエピソードの最後は河をボートで渡るルブリョフのそばを彼を誘惑した女が官憲に追われて
逃げていきます(私はタルコフスキー亡命のニュースを聞いたとき、このシーンを思い出し、
タルコフスキーもとうとう裸で河を泳いで渡ってしまったのだなと思ったものでした)。
最後の鐘作りの若者のエピソードも、鐘作りが映画監督の立場と同じだと考えれば、
あの少年もまた若き日のタルコフスキーそのものなのではないでしょうか。
一から十まですべてをこうやって解釈するつもりはないのですが、ただ、あまりに多くの人々が
タルコフスキー映画を語るときに「映像美」(特に「鏡」に多く見られます)という一言で
かたづけてしまっていて、たしかに映像の美しさはタルコフスキーの映画に欠かせないものだとしても、
もうちょっとタルコフスキーの「象徴主義」(世紀末的な高踏主義的な意味ではなく、
中世的な意味です)的な面を考えてみる必要があると思います。
まだまだ言い足りないことはたくさんあります。途中に出てくる知的障害の娘(ロシアでは
ユジロヴィと言うそうですが、決して差別される対象ではなく大切にされたそうです)についても
言いたいことはありますが、どうしても言いたいのは、タルコフスキーの映画は「僕の村」から
「サクリファイス」までつながっているのだということを忘れてはならないということです。
この映画の中で主人公が言う台詞「気分の悪くなる絵は描けない、描きたくない」に対して、
「ノスタルジア」では「自分一人のための美などもういらない」と言っています。
そして、タルコフスキーは「委託」を受けて人類救済のために「ノスタルジア」と
「サクリファイス」を作ることになるのです。
「イワン」が一本の木のアップで始まったのに対して、「サクリファイス」のラストも
木のアップで終わります。タルコフスキーの8本の映画をひとつのつながりとしてみてみると、
(たとえば漱石の小説のように)、むろん1本ずつ完結した世界として見るのはそれはそれで
必要だとしても、また違う印象を受けることができるのではないかと思っています。