他のレビュアーの方が、「本は使うモノ」と言っているのは、
記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)のp.21に書いてあることでしょう。
「一冊の本を読むには二通りの読み方がある。一つは本を箱のようなものと考え、箱だから内部があると思い込む立場、これだとどうしても本のシニフィエを追い求めることになる。・・・こうして注釈が行われ、解釈が加えられ、説明を求めて本についての本を書き、そんなことが際限なくつづけられるわけだ。
もう一つの読み方では、本を小型の非意味機械と考える。そこで問題になるのは『これは機械だろうか。機械ならどんな風に機能するのだろうか』と問うことだけだろう。読み手にとってどう機能するのか。もし機能しないならば、何も伝わってこないならば、別の本にとりかかればいい。・・・説明すべきことは何もないし、理解することも、解釈することもありはしない。電源に接続するような読み方だと考えていい。」
ドゥルーズが求めている読み方は、無論後者のほうにあるわけです。本書を「電気掃除機を使うように読め」というわけです(決して「ゲーム機を使うように」ではない)。
たしかにそれは正しい読み方であるし、宇野氏の翻訳方針は正しかったと思います。現に私は市倉訳では1章も読み終わらなかったのに、この訳で完読することができました。それも電車の中で。
家電を使うようにこの本を読んでほしいということは、逆にいえば「取扱説明書を読んだだけでわかったつもりになるな」という戒めでもあります。80年代、「ニューアカ」ブームの中でこの本がもてはやされたとき、ほとんどの人は取説(注釈書)を読んだ程度でこの本をわかった気になっていました。そのくせ本当はだれもわかっていなかったから、翻訳が出るまで10年以上かかってしまいました。市倉訳が出たときは快挙だと思ったものです。
しかし市倉訳は本当にわからなかった。氏はそもそもヘーゲルの専門家でした。だから本書を訳すのには不適当だったといいたくはありませんが、本書をアカデミズムに回収しようとする訳し方であったといわなければなりません。
日本も、ようやく最近になってドゥルーズ/ガタリを受け入れる素地が整ってきたといえるでしょう。宇野訳は整備された条件の一つです。書物も大学のアカデミズムも、みんな粉々になってインターネットの中に溶けてしまう、そんな時代を生きなければならない若い人には、ぜひ薦めるべき本です。まったく古びていません。