理性や学問を排斥・抛擲する「宗教」の暗黒面、とりわけセム系の排他的唯一神信仰の本質を巧みに表現した佳作である。
アレクサンドレイアの女哲学者ヒュパティアーは史上かなり有名な人物なので、ご存知の向きも多ことだろう。
(古代ギリシア・ローマ世界に不案内な人は、『
西洋古典学事典』の当該項目を参照されたい)。
末期ローマ帝国に蔓延していたキリスト教「狂信者」の犠牲になった彼女の最期は、教会史家ソークラテースによれば、「馬車から引き摺り下ろされて教会内に運び込まれたのち、全裸にされて殴りつけられたうえ、陶片ないし蠣殻で肉を骨から細かく削ぎ落とされて惨殺される」といった残忍なものであったという。
これがスペイン映画だという点が面白い。
かつて異端審問で大勢の犠牲者を「神の名の下に」殺戮したり、新大陸アメリカを侵略し先住民を異教徒だから云々といった口実で奴隷化し虐殺して来た本家本元のスペインに於いて、ようやく過去にキリスト教徒が犯した「残虐非道な愚行・蛮行」の万分の一でも映像化できるようになったとは、「著しい成長ぶりだ」と高く評価できる。 半世紀前であれば到底考えられない長足の進歩だと言ってよい。
もしもキリスト教原理主義者の跋扈するアメリカ合衆国であったならば、オリバー・ストーン監督のアレクサンドロス大王伝(ASIN: B0040V4ZI8)と同様に随所をカットすることを余儀なくされていたに相違ない。実際、U.S.A.では本史劇に対して「聖人を冒涜する作品だ」というファナティックな批判さえ罷り通っていると聞く。
こうしたキリスト教のおぞましい側面も知らず、またその教義も聖典の知識すら持ちあわせずに、欧米キリスト教国の模倣をして恥じない戦後世代の日本人には是非とも観て貰いたい映画である。
ただ本作で残念なのは、セット、美術の拙さだ。
アレクサンドレイアの最盛期はとうの昔に過ぎ去ったとはいえ、ムーセイオンやセラーピス神殿、図書館の安っぽさには辟易させられる。特にセラーピス神像がプトレマイオス朝初期の造像だとすれば、余りの不出来さに呆れ返らざるを得ない。
また可能であれば、英語などという野暮ったい訛った言語ではなく、コイネーでよいから古代後期ギリシア語を演者に喋らせて貰いたかったものである。