本書“アラン島”の著者であるシング(john millington synge:1871〜1909)は、現在では主に劇作者としてその名を知られる作家の由だが、本書は戯曲でありません。“アラン島”というのは、彼の祖国である西部アイルランドのゴールウェー県から、さらに船で西へ渡った小さな群島である。
当時シングは28歳。
元々音楽家志望で欧州各地を転々としたものの、自己の決定的な表現手段を見出しえず手持ち無沙汰になっていた頃、パリで先輩イェーツと出会い、彼の助言を受けて“アラン島”へ旅立ったとあります。ここで、彼自身の祖国アイルランドの荒涼とした辺境に生きる、漁民の厳しく豊かな生活を通してシングは、自己の行き道を決定的に発見することとなった。
本書は、その長期に渡った滞在中の見聞をルポし後年纏められた随筆集です。
岩波文庫の本年春の重版で、浅学な私はこのたび初めて知ったのですが、書店で本書を目に止め数頁を読み進むうち、その少々のアドレッセンスの名残と憂鬱な詩情と、或る種の諦観を内側に秘めた、シングの抑えに抑えた筆遣いが非常に強く印象に残り、そのまま買い求めました。
内容の詳細な説明は差し控えますが、現地の老人から話し聞かされる物語や挿話には、やはり夢と現が定からぬ中に蜃気楼のように浮かび上がり消える“ケルト的な幻視/幻想”が島民の生活態度や時間感覚の中に確かに呼吸しえていると感じる。
上に書きましたシングの素晴らしい叙景は、ただ彼の文才のみならず、翻訳者:姉崎正見さんの誠実で慎重な配慮の生きた訳文によって十分に表出されていると実感します。