家政婦と通じ、子供まで産ませてしまったカール・ロスマン少年は、両親に厄介払いされ、故国ドイツを離れてアメリカに渡った。裕福な議員の伯父の家に身を寄せたのもつかの間、不可解な理由でまた追い出され、カール少年はアメリカを放浪する……。
カフカにとって宿命の女性、フェリーツェ・バウアーとの関係がはじまった1912年夏ころから書かれはじめ、1914年までに書き上げられたようです。恋愛生活がうまく行っていた時期に書かれたためか、圧倒的な抑圧の雰囲気はなく、不条理さやいわゆるカフカエスクな要素は薄まっています。その分、主人公の生活感のなさが際立ち、徹頭徹尾まわりに流されるそのスタイルは、小説のなかの人物ながら、見ていてイライラするくらいです。
カフカによるロスマン少年の主体性のなさの描写は、反面教師としてなのか、もしくは、そうした人間的弱さに注目した結果なのか。いずれにしても、そのロスマン少年の視点を通じて、アメリカの生き馬の目を抜くような競争、エゴイズム、力こそ正義というルール、言った物勝ちの無法性を、カフカ自身がアメリカに実際に渡ることなく喝破していることは特筆に値します。また、主人公の孤立無援な雰囲気は良く出ています。
しかし、ややもすると問題の所在を自己の内部に見ようとせず、外部からの圧力とだけ見る点に、カフカの限界をも感じました。自分が自分の状況を変えられるのだ、いや自分しか変えるものはいないのだ、という確信はなく、そこには自信のなさと他者に救いを求める甘さが見え隠れします。圧倒的な不条理に責めたてられる設定になっていない分、カフカの人間的弱さみたいなものが表出してしまっているのは皮肉です。