「コエ」に呼ばれ、工藤悠人がクルマで出向いた廃車置場には既に筒井浄鑑が居て、眼の前には大きな冷蔵庫が放置されていた。扉を開けると三歳くらいの素っ裸の女の子がいた。死んではいなかった。
話はこの女の子・ミハルを中心に、浄鑑とその母・千賀子の章と悠人と娼婦・律子の章が交互に描かれる。
その過程で沼田まほかる独特の筆致で、奇妙な出来事がこれでもかこれでもかと起こってくる。この静かな恐怖感というか、不気味なざわつき感というか、どういう収束をしようと云うのか判らないまま、頁を繰る作業に何とも云えない掻痒感があるのだ。
アミダサマの世界、仏教の奥義が間接的に取り入れられているが、分ったようで分らない深淵さは本書のラスト辺りに漂い、モヤッとした茫洋感がいつまでも続く。
「生きるということが何らかの妄想を紡ぎ出さずにいられないものなら、自分は阿弥陀仏という妄想を選んで生きたことを、よしとしよう。銀河に思いを馳せる一個のバクテリアで充分だ」という浄鑑の言が深い。
アミダサマは千賀子でもあり、律子でもあり、ミハルそのものでもある。最初このタイトルはないだろうと思ったが、読了後、このタイトルでしか有得ないと思った。