新しい建築のマニフェスト!
「建築とは、解釈するものではなく、生成するものである」
最近、建築に対してよく目にする鍵語「生成」。意味のとり方は異なるものの、大学時代の恩師も、今年の夏に行われたアイカ現代建築セミナー「セシル・バルモンド×伊東豊雄」でも、「生成」という言葉が用いられている。そして、もちろん本書でも・・・
かつて「建築」といえば、「制作」「構築」なる言葉が多数だったように思うが、いつしか状況は様変わりしつつある。人間が計画的に作り込む「建築」ではなく、他者の介在を認めることにより半ば自己生成する「建築」。
どちらも創造行為に違いはないが、結果(形態)に対する責任の捉え方に違いがあるように思う。設計という個人的行為において、第三者的存在を認めるか否かがポイントで、「生成」という場合には、個人の意志力を超えるような、「直観的(神がかり的)」或いは「技術的」な力の存在を前提としている。
例えば技術的側面に注目すると、与条件はしっかり決めるが、そこから導かれる最適解はパソコンに任せる、というやり方も生成の一つの手法だろう。また、スケッチを描いているうちに、意図せず画期的な線が描けることもあるかもしれない。
そうした予測不可能性をどう捉えるか?それを含めて個人の意志によるものと見なすのか、或いは何か別の力が働いたと考えるのか。
現在のような高度情報化社会では、個人の能力(知識)の限界を感じざるを得ず、必然的に「謙虚」になるしかないのかもしれない・・・
最後に、「序」「あとがき」よりの本書に対する引用を紹介する。
ニューヨークの建築家カップルが、実に豊富な(反)建築の意匠を展開している本で、ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」の発想と共振するところが多い。建築における権力や固定の傾向に逆行するための、あらゆる形態発生的アイディアが集積されていて、図版も刺激的である。(宇野邦一/哲学者)
科学者にも哲学者にもできなかったことを、建築家がなしえる途を、この『アトラス』は示している。建築こそが、すべてを大らかに包みこみ、しかもそこから、何かを生成する力を秘めている。(隈研吾/建築家)