我々の日常生活、身体性のレベルにおいて進行する主体の馴致・喪失という現代の危機的状況を、あくまで身近な題材を基に、「アトラクション」というキーワードを携え巧妙かつ軽妙に描き出す。
目次は以下の通り
1 揺られる
2 乗り込む
3 流される
4 ながめてまわる
5 買物する
6 セルフサービスする
7 くりかえす
8 複製する
9 同期する
10 夢みる
目次を一目見て気がつくように、各章全てが動詞で表されている。これは従来の、主体の考察の対象としての「モノ」への眼差しから、主体がすでに巻き込まれている「コト」へのそれへの転換の必要を唱えるためである。
鉄道・電車、遊園地の乗り物、都市・郊外、スーパーマーケット、ディズニーランドなどの近現代的諸装置、つまり「アトラクション」のもたらす身体経験、そしてその身体観への影響が論じられる。
「アトラクション」という語は遊園地の乗り物のように、「始まり」→「過程」→「終り」をもつ「出来事」の物語的な連続的発生を表す概念であるが、何よりこれは「始まり」と「終り」はの地点が重なる、原則的に繰り返し可能な「ルーティーン」として理解される。
以下幾つかの例を思い出すままに挙げてみる(スーパーマーケットとディズニーランド)。
スーパーマーケットにおける行動科学的基づき徹底的に設計され尽くした商業空間は、我々に消費活動のもつ仮象的な「自由」の感覚をもたらす。儀式化されたかの如く定期的、かつ規則的に繰り返される消費行動は、スーパーマーケットという資本主義的「アトラクション」の提供するショッピングの「快楽」の魔力である。
映画とは明確な「始まり」と「終り」を持った物語的構成を「リアリティ」をもって提示する「アトラクション」である。我々は映画体験において平凡な日常生活からの束の間の「逃避」、すなわち「夢」を視覚的に体験し、またその日常性の世界へと帰っていく。
ディズニーランドとはこの「逃避」・「夢」を現実の3次元の世界において直接的に「体験」、「生きる」ことを可能とさせる「アトラクション」であった。
「夢」とは過去により実存的に拘束を受けざるを得ない現在から未来への投企から生まれる願望、意志などの心的表象である(著書ではS・ヴェイユの理論を用いている)。が、ディズニーランドが造り出す「夢」とは何より「商品」であり、交換対価である料金を払えば誰でも実現することが出来るものに過ぎない。
こうして「商品化」した「夢」を売るディズニーランドは年間2500万もの人々へ「夢」のルーティーン化された「消費」を可能とするに到った(ちなみに本著では観客の著しいリピーター率という事は触れられていないが、この反復性は却ってこの「夢」の「消費活動」の「アトラクション性」という主題を補うに余りある)。
以上のように、没主体的存在形態を日常生活のレベルにおいて身体化させる、様々な生活空間の「アトラクション化」が論じられる。しかし著者はこのような没主体的編成を、特権的批判者のスタンスから独善的に断罪することはしない。
これらの現象が最早きわめて広範にかつ深く浸透した現代日本社会において、誰もが否応なしにこのシステムの「内側」へ身を置かざるを得ず、何より誰もが種々の「アトラクション」の提供する利便性や規則性(欺瞞性にさえ?!)に身を任せ、「流される」ことにより得られる「快楽」を享受している「観客」であらざるを得ないからであろう。
飼い馴らされることの「快楽」、流されることの「悦楽」は、「共同体」や「アイデンティティ」に関する本質的な問題系を成しており、空虚なアイデンティティの政治的動員の可能性の根源ともなっている。この問題の本質的深さを考えると、安易な批判は無力であり無責任でもある。
この意味で日常生活、そして身体経験からという、至って身近な題材から物事について考えさせる本著の示唆は少なくない。そして、筆者自身の興味関心・日常体験(よって取材に少々偏り有り!?)から生まれた文章は、あくまで軽妙で読み手を飽きさせないという点も見逃せない。