イザベル・アジャーニの演技に引き込まれることは確かだが、
今観るとまずこれはストーカー女の映画と思われる。
現在であればストーカーという行為を非難するにしろ擁護するにしろ、
その精神構造というか、ストーカー女の心理を中心にもってくるだろう。
しかし、トリュフォーはもちろんそうはしない。
これは究極の愛の形、
恋に生き、恋愛を映画にし続けるトリュフォーの究極の愛の形、それがアデルなのだ。
映画の終盤で、愛するピンソン中尉に話し掛けられてもアデルは彼を見向きもしない。
愛する彼の顔さえ、認識できなくなってしまっている。
愛を捧げる対象はもはや生身のピンソン中尉ではなくなっている。
しかし彼女は依然として愛に身を捧げている。
それを狂気と言ってしまうことは簡単だが、果たして正気と狂気に明確な境界はあるのだろうか。
恋を前にしてみたとき、こうした区別は無用ではないのだろうか。
この映画は狂気を描いているのではなく、
愛を描いているのだと間違いなくトリュフォーは言うだろう。