出版社/著者からの内容紹介
創刊によせて
財団法人 住友病院
松澤 佑次
第二次世界大戦後ほぼ60年間,順調に経済発展が進み(近年多少の陰りがあるとはいえ)いわゆる飽食と,極度に発達した機械文明,車社会は,我々人類のライフスタイルを大きく変えてしまった.人体の細胞の中でこの変化に対して直接大きな影響を受けたのは脂肪細胞であろう.動物の脂肪細胞は,消費エネルギー以上に食物エネルギーを摂取したときに余剰分をトリグリセリドとして備蓄するための細胞であることは周知の事実である.人類の進化の歴史が約200万年~250万年といわれるが,その間ずっと飢餓を乗り越えながら生き延びて来られたのはこの脂肪細胞が存在したからに他ならない.食物を充分得られたときに脂肪細胞にエネルギーを備蓄出来たものだけが,食物の欠乏時でも探しにいける余力を持っていたものと考えられるからである.脂肪を蓄積できる形質を司る遺伝子を,倹約遺伝子と表現することがある.しかし,これは必ずしも正しい表現ではない.私は脂肪細胞にエネルギー供給源としてトリグリセリドを備蓄するという形質は,決して倹約しているのではなく,使うために貯める,むしろ生存に必須の生体防御であり,従ってそれに関わる遺伝子は,「生存遺伝子」と言うべきであると思っている.
最近の肥満症,脂肪細胞の研究の進展はわが国発のアディポサイエンスという研究分野を生んだが,その中でもとくに重要な発見は,脂肪細胞が単なるエネルギーの備蓄細胞ではなく,多彩な生理活性物質(アディポサイトカインという)を分泌する内分泌細胞であるという概念であろう.免疫を補助する補体,細胞の増殖因子や炎症関連のサイトカイン,血液凝固,線溶系に関連する生理活性物質,オンコジン,昇圧物質などが脂肪細胞から大量に分泌されているという事実がわかったときはかなり驚いた.これらアディポサイトカインの分泌も,栄養状態に応じて刻々変化する脂肪細胞の状態によって変化しているものと考えている.
21世紀の医学の中でも最も大きな課題の一つと考えられる糖尿病,高脂血症,高血圧,動脈硬化などのいわゆる生活習慣病は飽食と,運動不足を基盤とした肥満,つまり脂肪組織の過剰蓄積が大きく影響することは誰も否定しないであろう.しかも,脂肪組織の蓄積量が病態を決めるのではなく,内臓脂肪の蓄積に伴う脂肪細胞の機能異常,とくにアディポサイトカインの分泌異常(例えば,TNF-αやPAI-1の過剰分泌や善玉のアディポネクチンの分泌低下など)が,多彩な病態の成因として大きな意味を持つことが明らかになってきた.しかしここで,脂肪細胞の本来の生理機能である過剰なトリグリセリドを貯めるという現象がなぜ生体に障害をあたえる作用をするのか?という疑問が生じる.実は,よく考えてみると,我々人類の(少なくとも,先進国と開発途上国の一部)ライフスタイルが今の状態になったのは250万年の進化の歴史においてほんの50年にも満たないのである.その前の249万9千9百50年間に渉って脂肪細胞は,食べ物が豊富にあればちゃんとトリグリセリドを貯めて肥大し,またそれを使って再び食べ物を獲得することや,出産,授乳のエネルギーとして使うことで生存し,また種族を保存してきたものと考えなければならない.その間,エネルギーを備蓄し,また放出するだけでなく,栄養状態に応じて多彩なアディポサイトカインを適量分泌することによっても生体防御を行ってきたと考えるのが妥当である.例えば,現在の生活習慣病に対しては悪玉とされるTNF-αは細菌感染に対しては防御的に働き,またPAI-1にしても傷を負ったときは出血を防ぐ作用を発揮し,かっては善玉のアディポサイトカインとして働いてきたのであろう.
この50年はどこが違うのか?
世界の中では,アフリカ諸国,アラブ諸国,北朝鮮などを除いて,殆どの国ではいまや食べ物を獲得するのに苦労しなければならない状態はなくなっている.夜中に空腹になっても冷蔵庫には食べ物が詰まっており,またコンビニは24時間オープンしている.一方,現代人は脂肪細胞に貯まったエネルギーを使うことが極めて難しい環境で生活をしている.江戸の住人は一日2,30キロ歩いたそうである.車社会,リモコン,携帯電話などの異常なまでの普及は,日常生活の中で人間のエネルギー消費をどんどん減らしている.いまや運動するためにわざわざお金を出し,また余分な時間を取らなければならなくなっている.つまり,人類の脂肪細胞は類人猿から人類に進化して今日までの250万年間の殆どは,ある時は肥満して使うためのエネルギーを蓄積しそれに応じて適量のアディポサイトカインを分泌し続けてきた.その脂肪細胞にとってほんの一瞬間に当たるこの50年間のように,貯まっていく一方で,殆ど使わないエネルギーの備蓄状態は予測もしていなかった現象であるといっても過言でない.そこで起こっている脂肪細胞の機能破綻こそが,いわゆる飽食と車社会のなかで発症する生活習慣病のキープレイヤーと考えるものである.
このような概念をもとに我が国で生まれたアディポサイエンスという学問分野は,今や脳神経細胞に匹敵するぐらいインテリジェントな細胞といわれる脂肪細胞の生理機能の解明も含めた重要なものになってきた.またわが国の肥満研究は,高度肥満者を対象とした欧米の肥満研究とは異なり,質的なきめの細かい分析を駆使して単なる身体現象である肥満と治療すべき疾患単位である肥満「症」を明確に分類してきた.とくに近年動脈硬化の最もハイリスク病態として大きく注目されているメタボリックシンドロームのキーファクターとしての肥満症の重要性については,わが国が世界に先駆けて示してきた.
このような背景をもとに,ここに創刊にこぎつけた雑誌「アディポサイエンス」には,世界に誇るわが国の肥満症,脂肪細胞研究の第一人者が編集を担当している.今後内分泌代謝疾患はもちろん循環器疾患,腫瘍,免疫疾患などの診療にも脂肪細胞機能を導入した新しいアプローチが期待されることを考えると,広い範囲の専門医,研究者,さらには実地医家の方も本誌の情報を活用していただくことを期待するものである.