映画は夢に似ていることが多い。映画を見たという体験と夢を見たという体験は非常によく似ている。サイレント、モノクロの場合は音も色もないのでこちらで想像する部分が大きく、より夢に近い気がする。そのせいか、サイレント・モノクロの作品は、トーキー、カラーの作品に比べ、記憶しにくい。怪奇映画の場合は、ストーリーというよりイメージの連なりで見せるので、余計にそうだと思う。見ているとすぐ眠くなってくる。夢が覚えられないのと関係しているような気がする。
エプスタンの「アッシャー家の末裔」も確かに大学時代に見た記憶があるのだが、内容は殆ど忘れていた。どこで見たのかも定かではない。大阪の上映会だったと思う。字幕も付いていなかった。
ところが、何かの時に突然、思い出したりする。最近では、黒沢清の「LOFT」を見ていて。森や陰鬱な空や枯れ木の感じから、「アッシャー家」の場面が急に浮かんできた。これはエプスタンだと思った。
また、ブライアン・ユズナの「死霊のしたたり2」を見たとき、これは女人造人間が出てくる「フランケンシュタインの花嫁」のパロディなのだが、この女人造人間が登場してきて、やっぱりエプスタンのアッシャー家の「墓から戻ってきた花嫁」だと思った。
「残酷の沼」でロバート・ブロックの「ポー蒐集家」のエピソードを見たときも、「アッシャー家」の波立つ沼のイメージが甦ってきた。
夢のように意識下に記憶されているのだろうか。繰り返し繰り返し「アッシャー家」のイメージが反復される。
改めて鑑賞すると、覚えている「アッシャー家」と随分違うのに驚く。バージョンも違うのかも知れない。
記憶のアッシャー家はもっと怖かったようにも思う。恐怖が勝手に成長していたのだろう。
風、波立つ沼、雲が走る空、不気味な枯れ木のシルエット。絵を描いているときのアッシャー家当主のアップ。交尾するガマ。絵に命を吸い取られていく花嫁。奇怪なイメージがどんどん重なっていくのが見事。
途中、屋敷の周囲の森のようなところに、黒犬が小さく映る。呼ばれても、サッと身を翻して逃げてしまう。どうでもいいような場面だが、感心してしまった。今の映画だと必ず黒犬のアップを挟んでしまうのだろうけれど、挟まない。黒犬は小さいまま。そういうところが何だか凄くいい。夢のようにイメージとして、無意識下に残ってしまう。黒犬のアップが挟まってしまうと、「映画」を意識して夢から覚めてしまう。
ラスト、墓から戻ってくる花嫁ですら、アップにならない。アップでは怖くない。
屋敷が燃え落ちる場面はなかなかスペクタクルだった。ラストの花嫁の甦りはもう少しじっくり描いた方がよいようにも思ったが、どこかに別のバージョンがあるような気もする。