誰もがうすうす感じていた(と僕は思うのだが)自分に内在する「アサッテ」が、この小説によって白日の下に曝された。最初は、(僕とは無縁の)主人公である奇異な叔父さんの物語だとおもって第三者的立場で読み始めたのだが、途中から、くすぐったいような羞恥感覚がでてきた。否応なく、叔父さんに共感する部分が芽生えてきたのである。
さらに面白い点は、「アサッテ」の権化のようにみえた叔父さんが、「チューリップ男」の登場で、一気にその「アサッテ度」が低下するのである。叔父さんが「チューリップ男」のアサッテを解析すればするほど、自らのアサッテが萎えてしまう感じである。「チューリップ男」を「天然アサッテ」とすれば、叔父さんは「養殖アサッテ」のようなものである。頭の良い、哲学的にも目覚めた叔父さんは、凡庸の「枠」を排しようと「アサッテ」を極めようとしたのか・・・。しかし、その「アサッテ」を極めようとした先に「アサッテ」という「枠」があるのに気づいてしまった・・・のではないか。叔父さんは、ひょっとすると「チューリップ男」に嫉妬したかもしれない。叔父さんの失踪は、アサッテの挫折かもしれない、とも思った。しかし、読み終わってみると、特異な主人公とおもわれた叔父さんが、人間味豊かな人物として身近に感じられるようになっていた。
この作品は、散々やり尽くされたようにみえる「小説」という表現手段にまだまだ新たな地平が拓かれる可能性が残っていることを示唆している。