内容(「BOOK」データベースより)
J.バトラーの先へ。言葉を奪われ、主体性を否定されたマイノリティは、いかにして差別を語り、自己を取り戻せるか。差別の社会学、ゴッフマン、カルチュラル・スタディーズ、ポストモダン・フェミニズムの理論の精査を通してアイデンティティのはらむ権力性を喝破し、“語る/聴く”主体の可能性を提起する。
内容(「MARC」データベースより)
差別の社会学、ゴッフマン、カルチュラル・スタディーズ、ポストモダン・フェミニズムの理論の精査を通して、アイデンティティのはらむ権力性を喝破し、「語る/聴く」主体の可能性を提起する。
出版社からのコメント
◆ポストモダン・フェミニズムを超えた先へ◆
カルチュラル・スタディーズ、ポストモダン・フェミニズム(バトラー『触発する言葉』岩波書店など)、社会構築主義(上野千鶴子編『構築主義とは何か』勁草書房)によって、従来のアイデンティティ、権力、主体概念が鋭く問い直されています。本書ではこれらに加えて、従来の自己と行為の社会学、差別の社会学、近年のフェミニズム論争を踏まえ、「なぜマイノリティや女性は差別されるのか」を「アイデンティティの孕む権力」という観点から鮮やかに説き明かし、「語る―聴く主体」の概念と戦略をめぐって、理論化を試みます。
カルチュラル・スタディーズ、ポストモダン・フェミニズム(バトラー『触発する言葉』岩波書店など)、社会構築主義(上野千鶴子編『構築主義とは何か』勁草書房)によって、従来のアイデンティティ、権力、主体概念が鋭く問い直されています。本書ではこれらに加えて、従来の自己と行為の社会学、差別の社会学、近年のフェミニズム論争を踏まえ、「なぜマイノリティや女性は差別されるのか」を「アイデンティティの孕む権力」という観点から鮮やかに説き明かし、「語る―聴く主体」の概念と戦略をめぐって、理論化を試みます。
新曜社の関連書籍
『ワードマップ フェミニズム』 江原由美子・金井淑子編
『批判的エスノメソドロジーの語り』 好井裕明著
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
坂本 佳鶴恵
1960年生れ。1987年東京大学大学院社会学研究科博士課程中退。北海道大学助手、日本女子大学助教授を経て、お茶の水女子大学教授。専攻は社会学(社会意識論・家族論・ジェンダー論)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1960年生れ。1987年東京大学大学院社会学研究科博士課程中退。北海道大学助手、日本女子大学助教授を経て、お茶の水女子大学教授。専攻は社会学(社会意識論・家族論・ジェンダー論)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
抜粋
近年、カルチュラル・スタディーズ、ポストモダン・フェミニズムなどによって、アイデンティティや自己が、差別やマイノリティにかかわる重要なテーマとして理論化されている。もちろん、アイデンティティはこれまでも、人種差別別(レイシズム)反対運動やフェミニズム運動のなかで、「アイデンティティ・ポリティクス」の戦略として重視されてきた。たとえば「美しい」白人に近づくよう努力するのではなく、「黒人は美しい」と自らを肯定することの重要性が認識され、実践されてきた。このように運動・実践のレベルでは一九七〇年代から、差別やマイノリティをめぐる問題がアイデンティティと深く関わっていることが強く主張されてきたのである。しかしこのことの理論化についてはあまり進展がみられなかった。むしろ九〇年代に入って、社会構築主義的な観点から、差別とアイデンティティのかかわりが、より深い理論的なレベルで議論されるようになってきた。
他方、自己とアイデンティティは、長年社会学で扱われてきたテーマである。また近年では物語論のような「自己解放」の文脈から、自己について活発に理論化がなされている。このような社会学的なアイデンティティ論、自己論は、近年学際的になされてきたアイデンティティ、自己の理論化とどのような関係にあるのだろうか。あるいは、それに対してどのような貢献をなしうるのだろうか。
これまで、社会学の自我論やアイデンティティ論は、少数の例を除いてマイノリティの立場にある自己やアイデンティティを扱ってこなかった。取り上げられる場合でも「マージナル・マン」のように複数の対等な文化に引き裂かれる個人の内的葛藤や、黒人の自我の統合が挫折する必然などが、個別の事例として触れられるにすぎなかった。自我やアイデンティティの普遍的な理論的課題としてマイノリティ/マジョリティ関係がっ取り上げられることはなかったのである。言い換えれば、アイデンティティに潜む/アイデンティティのはらむ権力性については、アイデンティティ論や自我/自己論としては、考察されてこなかったのである。
しかし、社会学においてのことがまったく等閑視されていた、というわけではない。アイデンティティ論としてではなく、社会に対する個人の主体性というテーマが、社会学では長く議論され、蓄積されてきた。第4章で述べるように、人は規範と役割(たとえば黒人、女性、障害者などのカテゴリーによって定められる行為や価値観)を内面化し、制度に従うだけなのか、そうではあるまい、という問いである。(「序」より)
他方、自己とアイデンティティは、長年社会学で扱われてきたテーマである。また近年では物語論のような「自己解放」の文脈から、自己について活発に理論化がなされている。このような社会学的なアイデンティティ論、自己論は、近年学際的になされてきたアイデンティティ、自己の理論化とどのような関係にあるのだろうか。あるいは、それに対してどのような貢献をなしうるのだろうか。
これまで、社会学の自我論やアイデンティティ論は、少数の例を除いてマイノリティの立場にある自己やアイデンティティを扱ってこなかった。取り上げられる場合でも「マージナル・マン」のように複数の対等な文化に引き裂かれる個人の内的葛藤や、黒人の自我の統合が挫折する必然などが、個別の事例として触れられるにすぎなかった。自我やアイデンティティの普遍的な理論的課題としてマイノリティ/マジョリティ関係がっ取り上げられることはなかったのである。言い換えれば、アイデンティティに潜む/アイデンティティのはらむ権力性については、アイデンティティ論や自我/自己論としては、考察されてこなかったのである。
しかし、社会学においてのことがまったく等閑視されていた、というわけではない。アイデンティティ論としてではなく、社会に対する個人の主体性というテーマが、社会学では長く議論され、蓄積されてきた。第4章で述べるように、人は規範と役割(たとえば黒人、女性、障害者などのカテゴリーによって定められる行為や価値観)を内面化し、制度に従うだけなのか、そうではあるまい、という問いである。(「序」より)