本書中の『新郎』ほどの、日本語における清らかな名文は他にあるだろうか。
《一日一日を、たっぷりと生きて行くより他は無い。明日のことを思い煩うな。明日は明日みずから思い煩ん。きょう一日を、よろこび、努め、人には優しくして暮したい。青空もこのごろは、ばかに綺麗だ。舟を浮べたいくらい綺麗だ。山茶花の花びらは、桜貝。音たてて散っている。こんなに見事な花びらだったかと、ことしはじめて驚いている。何もかも、なつかしいのだ。……》
米英との開戦直後に書かれたこの随筆は、死を覚悟した高潔なやさしさとでもいうものが満ちている。
《明日の事を思うな、とあの人も言って居られます。朝めざめて、きょう一日を、十分に生きる事、それだけを私はこのごろ心掛けて居ります。私は、嘘を言わなくなりました。虚栄や打算でない勉強が、少しずつ出来るようになりました。明日をたのんで、その場をごまかして置くような事も今は、なくなりました。一日一日だけが、とても大切になりました。》
太宰ファンでなくとも、日本人ならばぜひ読んでほしい。