老いてなお狂奔にある老醜の躁がしい今の世にあって、このしっとりとした朝靄のような淡い静寂はどうでしょう。
処女作から40年余りを経た古井氏のこれまでの歩みは、小説の可能性を尽くしての、ある生の佇みを求めて境域を探る遍歴でした。病と健の境界で女は佇み(『杳子』)、生と死の境界を女は司どり(『聖』)、性の境界で女と男は解けかかり(「眉雨」)、死と生の境界が果てなく往来されました(『仮往生伝試文』)。境域は滲み、拡がっていきました。不穏と平穏の狭間に静穏が拡がり(『楽天記』)、官能の溶け合ったところから新たな官能が開きました(『聖耳』)。こういった古井氏の歩みは、本作品集でひとつの極北に到達したようです。自と他が、老と若が、病と健が、女と男が、未来と過去が、不穏と平穏が、往と来が、死と生が、醜と美が、聖と俗が、あはれとをかしが、永遠の現在の内に交じって靄と立ち込め、そこからそれでも生と呼ぶしかない滴が、一滴一滴淡い光を湛えて滴っています。言葉と沈黙から織り成された節度ある叙述が、概念的理解を超えた、心象と形象を超えた生のイメージで、読む者の内を遍く浸します。そしてそれは喧噪に脅かされた生活にあってさえ、精神と肉体を解きさえすれば、私たちにも開かれる生の様相なのです。
官能や感情といった外殻で隠蔽された源からの生の湧出を、言語によってのみ可能な形で体験させてくれるか否かというのは、文芸作品を評価するひとつの基準となるでしょう。その基準に照らしてこの作品集を読むならば、小説という形式において紛れもなく窮みの近くに位置します。ここから先は詩歌の役になるかと思われるのですが、これまでの古井氏の歩みに思いを致すと、小説の可能性を更に尽くすのかとも思われます。その時、小説はどのような様相を見せているのでしょうか。
文学に留まらない、日本の芸術のメルクマールとして読み継がれるべき作品集でしょう。