新聞に連載されていたと思しきごく短いエッセイのひとつひとつに、マッチ箱よりひとまわり大きいくらいの白黒写真がついていて、そこには全て、作者の愛した「もの」が写っている。堀江氏の小説を好きな人なら、この装丁を見るだけですでに笑みがこぼれてくるのではないだろうか。
それは、主にフランスの古物市などで出会った、日用品、電化製品、文房具、玩具などで、いわゆる高価な骨董品というよりは、二十年から百年前にはごく普通の家庭で当たり前に使われていた、むしろ量産品だ。そういう「もの」との出会い、買おうかやめようかという戸惑い、店主との味わい深いやりとりが(というかそれだけが)書かれたエッセイだ。どうしてこんなに胸に沁みるのだろう。
それは多分、ものとの出会いに、ささやかな幸せや愛しさが感じられるからで、そういうあたたかな優しさ、あるいはおだやかな痛みが、氏の小説の持ち味でもあるからだろう。人ひとりの運命を変える荒々しい瞬間、というものももちろん書かれているが、それはごく一部で、氏の小説の大半を占めるのは、ささやかな日常のドラマのように思う。ささやかな愛やかなしみの、胸があたたかくなったり、胸がきゅっと締めつけられたりするリアリティーが、氏の小説の大きな魅力なのだ。
逆説的に言うとこのエッセイ集は、小説的な趣に満ちている。旧式のスライド映写機が、白いペンキを塗っただけの殺風景な壁に、クフ王のピラミッドをぼんやり映す瞬間や、四桁の数字がパタパタ動くイタリア製の重い鉄の目覚まし時計の、十九時五十九分から二十時になる瞬間(!)の、なんと小説的なことか。骨董屋で、ある陶器に出会った作者は、ベージュ地に黒と茶がしっくり溶け込み、時とともに生じた貫乳もどきの傷がなかなかいい味を出しているのを見て思う。ありきたりのものを美しくするのは「時間」だと。そう、堀江氏の作品に人は「時間」を読んでいるのだ。