明らかに、これは「表象」を「表象」しようとする高度な絵本だ。
「ぼくのくれよん」の「ぼく」とは、ゾウのことなのだが、このゾウがまず「あおい くれよんで びゅー びゅー かく」。するとクレヨンのタッチで見開きページの6割ほどを占める、「こんなに すごいのだ」というような楕円が描かれる。次の見開きで、「かえるは いけだと おもって とびこみました」。しかしさらに次の見開きで「いけでは なかったので かえるは びっくりして しまいました」。
次に赤いクレヨンの話があって、その次が「こんどは きいろの くれよんで びゅー びゅー どうぶつたちは おおきな ばななが あると おもいました」。で、次の見開きに「くれよんで かいた ばななは たべられません」。
これを、例えば子どもが「これ何だ?」とチョキの手を差し出し、「ハサミ」と答えると「残念でした、手でした!」と返すようなものだ、と言うこともできるだろう。しかしそうだとしても、この子どものヒッカケ遊びには人間の表象能力をめぐる、どうでも良くはない問題が潜んでいると思う。そして、(少なくとも私の印象では)多くの絵本が「ゾウさんがクレヨンで描いた青は、水になりました、池になりました、海になりました」式に、「子どもの想像力(イメージ能力・表象能力)を育む」方向に展開するのに対して、この絵本の、むしろ表象を(借り物の表現で恐縮だが)脱構築すると言うか、脱臼させると言うか、そういう展開はショッキングだった。そしてここからさらに、「これはクレヨンではないよ」へと進むことも、もちろん可能だろう。
言うまでもなく、私はフーコーの『
これはパイプではない』を思い浮かべているのだ。
でも、実はそれだけではない。
この絵本の最初の見開き、左ページには「これは くれよんです。 でもね この くれよんは」とあり、右ページには1本の橙色のクレヨンが描かれている。次の見開き、左に「こんなに おおきい のです」とあり、右に、橙色のクレヨンの上に猫(らしきもの)が描かれている。クレヨンは猫ほどにも大きい、というわけだ。そして次の見開き、何本ものクレヨンが「ごろ ごろ ごろ ごろ」と転がる右下に、猫。次の見開き、「にゅー」と現れた長細い灰色の何かが、クレヨンの1本をつかみ上げる。次の見開き、「これは ぞうの くれよんなのです」という文章の上に、初めてゾウが全体像を現す。
ここから、ドゥルーズの
ルイス・キャロル論へと話をつなげることも出来るだろう。しかしさらに面白いことに、「こんなに おおきい のです」という文章を添えて、猫と共に描かれたクレヨンが、全然大きく見えないのだ。それは、アリスが大きくなる(生成する)と同時に世界が小さくなる(生成する)というのとも違う。むしろ、絵本の世界では事物の大きさの秩序が狂っていることこそ常態であり、長新太の世界ではなおさらそうだから、ではないだろうか?
だからこの絵本の導入部において、表象されたクレヨンは確かに巨大化するのだが、一方でさまざまな方向から表象の秩序そのものを脱臼させようとするモメントが働いているため、クレヨンは一向に巨大化せず、それどころかクレヨンらしくさえなく、ただひたすら青や赤や黄色に塗りつぶされた色彩の表面が浮かび上がることになる。この「色を塗りたくる快楽」の世界にライオンが介入し、秩序を回復させようと制止をかけるのだが、「ぞうは まだ まだ かきたりない みたいで くれよんを もって かけだしました」と結ばれる。
因みに、2歳半の女児に読み聞かせし、最初に引用した「かえるは びっくりして しまいました」のところで「お水じゃなかったんだって。何だったのかな」と訊ねたところ、「クレヨン」とちゃんと答えました。ただし「かえる」や「クレヨン」については疑問なく受け入れていたので、彼女の表象能力は脱臼していないと思います。