全体の印象としては、中途半端にミステリーとオカルトを混ぜてしまったと感じる。
○ この作品の場合、一番の問題は視点が一人称な事だ思う。何故なら叙述トリックで一人称を使う場合、大変に気を配らないと、非常にアンフェアになりやすいからだ。
主人公が催眠術にかけられたなどという場合は知らないが、通常は一人称の場合、読者は主人公の見聞きしたもの、感じたものからしか情報を得る事ができない。セリフはもちろん、地の文も主人公の主観という事になる。そうなると主人公の情報感知能力を含め、読者は主人公を信用せざるを得なくなってしまう。
よって主人公がショッキングな経験をし、明らかに異常でおかしく感じ、心の中が荒れ狂うであろう事実を、一人称なのに意図的に一部分を欠落させて書くのは、アンフェアだと感じる。
何故なら一人称なのに主人公が見たり感じたりする事を書かなければ、それは「存在しない事」と同義になると思うからだ。
それを破ると主人公自身が意図的に読者を騙すという、おかしな事になってしまう。そこが色々な角度から情報を収集でき、意図的な欠落を考える余地のある第三者or神の視点で描かれる場合と大きく違う所ではないか。
結果的に核心部分となるあの場面で、普通ならセリフや心の声として当然書かれるであろう単語が全く無い。これが第三者or神の視点で書かれたものならば、まだわかるのだが、一人称の視点で書かれているので大変アンフェアに感じる。
○ この作品について、ネット上の感想などでは、再読すると真意が見えてくるといったような評も多い。しかし私個人としては、再読を前提としたような書き方には同意しかねる。
人は色々な状況や条件で本を読む。じっくり読める人もいれば、時間のない人もいる。本が自分の所有物である場合もそうでない場合もある。
再読して堪能したい人は、そうすればよい。しかしそうする義務はないし、そうしたくても出来ない事もある。また再読して明らかに意味が増すのを知ってから読み始めるものでもない。
もし作者が再読を前提に書いているのならば「再読して、このセリフや描写の真意がわかったでしょ。オレはそういう事を狙って書いていたんだよ」となってしまい、そういうやり方は、傲慢だと感じる。
全ての読者が再読をする時間や気力があるわけではない。どうしても再読をさせたいのならば、事前に帯や裏表紙に「二度目に読んだ時、本当の真相がわかる」等、記すべきだと思う。ただ、それがわかっていたのなら、私はこの本を読まなかったであろう。
○ オカルト部分の掘り下げが中途半端。書き方として、事件の深層(真相ではない)にオカルト風味を持ってきているのに、何故そういう事が発生しうるのかの裏打ちが乏しい。勿論、たとえば「〜の呪い」のような陳腐なものはどうかと思うが、何故、悪魔の子と思われる状況があるのかの突っ込みが欲しい。
原因としては老人と養女の気持ちの問題を殆ど描かなかった事にあると感じる。もっともそこを掘り下げると、子供向けとしは不適切なものとなるのかもしれないが、そもそも根本的な原因と思われる部分自体が、子供向けとしてはどうなのかと思うので、この話を子供向けにした時点で誤りがあったと考えざるを得ない。
そこら辺が足りないので、じんわりとくる恐怖感に乏しく、幻想的というよりも悪い意味で「非現実」感のほうが強い。
○ この話の中には阪神淡路大震災が描かれているのだが、何か色々な事が、それによってウヤムヤにされている気がする。びっくり館の存在やラストのオカルトムードは非現実的なものなのに、震災という正に現代を生きる者ほとんど全員において、現実そのものの事象を絡めるのは大変違和感をおぼえる。
もしこれがかなり昔の話で震災も関東大震災であったなら、読者の多くは現実味のない事象として捉えるであろうから、ある意味しっくり来るのだが。
○ 暗黒館と奇面館は未読であるが、それ以外の館シリーズとフリークスは読んだ。これにて綾辻作品卒業としたい。