これを達観というのだろう。仏教の本質は、すべてを「なんだっていい」「どうだっていい」と思えるこころにある。著者はこう断言する。善も悪も、まじめもふまじめも、健康も病気も、倹約も放蕩も、すべてにこだわる必要がない。何が正しいのかなんて、人間にはわかりはしない。だからデタラメに生きることを決意して、自分のさもしい計算を捨ててしまおう。きっと「他」の限りない「力」の存在に気がつく。それは全人類の「幸福」を願っている。それを信じることができれば、けっこう気楽な毎日がやってくるようになる。これが親鸞の到達した教えである。
いや、著者はもっと率直にこう言ってくる。本音をいえば、「信じられません」。信じるのは難しい。信じる相手が常識を超えているのだから、あたりまえである。目に見えない「阿弥陀さま」なんか、どうやってあてにすればよいのか。だから親鸞の結論は、「信じられません」なのである。これは驚くべきことだ。そこで、向こうから信じさせてくれるのを、待つ、ということになる。それでも「信じる」ことができたなら、これはもう、感謝するしかないだろう。こちらは何の努力もしていないのだから。そこにたどりついたとき、人は真に自然に生きて死ねる。これが他力のさとりである。