女性がオルガスムに達するためには、女性自らが慰めるか、女同士で快楽に耽ればよい。そこに男性の手など必要はないのだし、そこに到達することも案外簡単なこととして描かれる。しかし、その美しきオルガスムの瞬間を一つの映像作品にしようとするとどうなるか? 一旦被写体になることを心に決めた彼女たちは、見つめる監督の目線を愛として受け止めてしまうのだ。そのため、あくまでカメラの視線であり続けようとする監督本人は、出演した女たちに対して一切何も手をくだすことはないのだが、そのことがかえって彼女たちから「裏切り」と感受されてしまう。そんな壮絶なパラドックスの一部始終を丹念に描いた作品。
この作品の主人公と思われる映画監督のフランソワは、まるで前人未到の宇宙開発でも行うかのように、とても禁欲的に(!)女の性の発露を探求する。対象となる彼女たちを、愛ではなく、あくまで映画作品として凝視する姿勢を崩さない。その一方で、演じる側の女たちは、何故か高級レストランやホテルの一室に出没する美貌の堕天使に逐次見守られながら行為を行うタブーの観念と対峙している。この作品が描いているものは、そんな生真面目なインテリ監督と、罪悪感をオカズに発情する淑女たちとが織り成す、実は実はとても古風で折り目正しき淫乱さだと言えようか。凡百のポルノグラフィーとは一線を画しながらも、流行りのスローセックスとも性に対するスタンスは明らかに異なっている・・実際、たまりに溜まった欲情を奥方相手に発散するフランソワの、何とも性急で!切ないことといったら。。。
【以下ネタバレあり】
筆者がこの作品で特に印象に残ったのはラスト・シーンである。かつての騒動から数年が経ち、フランソワは偶然とある街角で出演者の一人(ジュリー)と出会う。その時カフェで二人が交わす、まったくかみ合うことのない不毛な会話・・もしもフランソワが、死んだ母親の亡霊をすんなり受け入れたように、彼女の存在をかつて(そして今まさに)受け入れていたならば? あるいは、ジュリーもまた、代役の妙〜に幼さの残る一少女のように、オルガスムなどあくまで即物的に処理して演じただけならば、二人の間にここまで極端な溝が生じることは回避されたであろう。自分の目の前で愛を求める彼女に対して、フランソワは現実の彼女とは別のものを見ている。そのことに対してジュリーは「憎しむことも出来ない」。性愛の果てにあるものは、かように寒々としたディスコミュニケーションなのだと、これまたフランソワ同様の頑なさでブリソー監督の主張がじんわり伝えられる。そんな極めて特異なシーンに、筆者は鈍い感銘を覚えてしまった。
ある意味この作品は映画監督の映画でもあるのだから、エロと映画制作にまつわる困難な事態を一本の作品にしてみました、とやれなくもないはずだが、そんなアーティスティックな創作の苦悩は封印し、その分演じる女優たちの艶かしい肢体に多くを語らせる。発想のオリジナリティや、能書きも多いがエロもどっぷり濃厚に!という演出の姿勢はとても良心的だと思う。女優たちも皆綺麗だ。個人的に好みのキャラクターも確かにいたw が、その一方で、この作品には何かが足りない、とも感じる。その足りない何かとは・・、結局のところ、作品を観る個々人の性的パーソナリティによって充填していくしかないのかも知れない。少なくとも、性愛や美に対する観念を目覚めさせてくれる稀少な作品という意味でも、この作品の価値を素直に賞賛したい。