言語ゲームとは、「規則(ルール)に従った人々のふるまい」とあり、ルールによって対応付けられているのが「価値・意味」であるという。
論証したところ、この場合の「意味」とは「共有しうるもの」であった。共有しうるもの=意味であり、意味があるのならば対応づけ、即ちルールがあり、ルールと言語ゲームとはコインの表裏の関係にある。つまり、言語ゲームには必ず意味が内包されている。
分析のモデルとして、非常に優れていて驚愕した。
歴史とは言語ゲームの蓄積であるという。
つまり、この本はウィトゲンシュタインの言語ゲームの蓄積(ウィトゲンシュタインの人生)を洗うことによって、ウィトゲンシュタイン本人を分析している。
また自閉症の記述としてみても面白い。
「論考」の写像理論とは、世界と自己とが1対1対応であるということ。即ち独我論。「自閉」である。
「この私だけが」世界に意味づけ可能ならば、私だけの言語(私的言語)が出来上がる。私だけにしか理解しようの無い言語。
「共有しうるもの」が意味ならば、私的言語は「意味」を持ち得ない。
これは、自閉症の言語認識障害とリンクする。
また、世界と自己が写像対応ならば、他者(世界)を自己と切り離して認識することが困難である。世界をそのまま自分へ写し取る。
これは、自閉症特有の「逆転バイバイ」「オウム返し(ecolalia)」とリンクする。
(講談社現代新書、熊谷高幸著「自閉症からのメッセージ」などを参照すると、共通点を認識しやすくなると思う。)
前期の自閉的自己から、後期の言語ゲームという共同主体的自己へと、即ち「エイリアン」から人間へとウィトゲンシュタインは到達する。
自閉という系(システム)の中から、「みんな」に「主張」された価値、即ち、ルールが「クワスやグルー」。
だから「理解」ではなく「主張」なわけだ。
「共有できるもの」が意味ならば、自分自身(自閉)への意味付けは無意味だ。
自己愛も自己卑下も無意味。
それよりも、みんなの振舞い、存在に感謝し、みんなで価値・意味を創造していこう、という思想にまで拡張できる。