生物学に興味をもっている方ならご存知だと思うが粘菌類という奇妙な生物がいる。彼らは通常は単細胞生物として生きているが、食料が枯渇してくると集合して一つの意志をもった多細胞生物のように変身するのである。彼らの生態は原始的な単細胞生物がなぜ多細胞生物へと進化したのかという大きな謎にも関係している点で非常に重要な生物だと考えられている。ちなみに粘菌類は、あの南方熊楠が生涯の研究テーマとしたことでもよく知られている。
いきなり変な感想だなと思われるかもしれないが、実はこの本を読み終わったあと粘菌類を思い出さずにはいられなかったのである。山本氏によると、日本人というのは通常は非政治的で自由な生活を送っているようにみえるのだが、大体15年ぐらいを周期にして突然変身し総政治化してしまう、おかしな習性をもった民族だというのである。特に戦前から戦後にかけ(すなわち山本氏が生きたその時代であるが)、日本人はそのような奇妙な周期の中で変身を繰り返してきたという。
戦前は昭和10年頃(ちょうど美濃部達吉の天皇機関説がやり玉にあげられた頃)を境に日本人はいっせいに総政治化していった。それまでは組合のストライキなんかも平気で行われるほど自由な国だったのが、突然に全体主義の国家へと変身してゆくのである。そしてそのまま絶望的な戦争に突き進んだ末に昭和20年8月15日を迎える。すると今度は何事もなかったかのように日本人は各自自由な個人に戻って生き始めるわけである。ところがそれからしばらくすると、今度は1960年の安保反対闘争にかられて国民がまたもや総政治化しはじめる。しかし、結局安保条約が自動延長となると国民はまたもや、何事もなかったかのように元の通常の自由な個人に戻って経済活動にいそしむようになる・・・・。
そういえば私の記憶の中でも70年安保の際にも学生や学者、知識人、マスコミがベトナム反戦運動に連動して総政治化していった時代があったが、その後には過去のパターン通り、いつのまにかシラケ時代といわれる個人主義の時代になっていたことを昨日のことのように覚えている。山本七平が本書の論考をしたためたのは、その70年安保後の政治熱が冷めて、総政治化した国民がまた元の自由な個人の生活に戻ろうとしていた、ちょうどその過渡期であったと思われる。
ただし、その後の日本人をみると、山本氏が本書で15年周期の規則性があるといっていたほどには、かつてのように総政治化するといった顕著な例はないかもしれない。それは日本人が過去の失敗を少しぐらいは学習し得た結果だったのかもしれないのだが・・・。しかし、本書の最後の結論は現在の日本にもあてはまる驚くべき洞察があることは疑いえない。
おもうに日本人というのは、(良い意味でも悪い意味でも)まさに粘菌類と同じように、独立した「個」として完結することはなく、いつも奇妙な有機体の一部としてしか生きられない民族なのであろう。だから日本には本当の意味での組織というものも存在しない。なぜなら、すべての人は個人として生きているのでなく、家族や会社という疑似有機体(「家族的共同体」)の一部として生きているからである。日本の組織は欧米的な個々の部品に分解できるような組織ではない。その結果、状況の良い時は力を発揮するかもしれないが、状況が悪くなると死ぬ(解体する)ことさえもできずに、ただ植物人間化していつまでも無意味に生きながらえるという宿命をもっている。そのよい例がかつての日本軍であり国鉄であり、最近では日本航空や東京電力もそうかもしれない。官僚という名の組織もそして政治家集団の組織(政党)もおそらく同類なのだろう。それらはたとえ無用の長物となっていても、決して解体することはできず、いつまでも生きながらえるのである。そしてある限界を超えると、かつての山一證券の倒産時のように「社員には責任はありませんから」という(日本人以外には意味の分らない)名言(迷言?)と共に突然の破局を迎えることになる。
こんなことを書きながら今日もまた身震いするようなニュースが飛び込んできた。あの松下幸之介のパナソニックがなんと7800億もの赤字をだし、世界のソニーや優良企業のお手本のようなシャープもまた2,000億以上の赤字をだしていたという・・・・。
粘菌類は生活環境が苦しくなると周期的に個の生活を捨てて集団に回帰して苦境をしのぐという知恵をもつ不思議な生き物でもある。次にやってくるはずの日本人の総政治化は、まさに今現在胎動中なのかもしれない。
補足:本書は75年頃某雑誌に連載された文章をはじめて単行本化したものだそうである。その理由は、まさに今の時代に即しているという刊行者の判断があったのだろう。